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位置づけ高くない五輪での特筆すべき活躍

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

 去る2日(現地)で、ロンドン五輪のテニス競技で日本選手の戦いが終わった。世界17位の錦織圭選手が男子シングルスベスト8で大健闘、という位置づけで語られる戦績は、実際にメダルが獲れている他の競技に比べて注目されなくても仕方がない。錦織ほか選手たちも「国を背負って戦っている」と言い、テニス協会もJOC役員を含む強化本部が総出で現地サポートをしていたし、すでに4年後に(どんな種目でもいいから)メダルをとることを具体的目標にして男女各々の強化計画を示しているのだから、後述するような「軽い扱い」でないことは理解できる。しかし、テニス側の客観的事情として、やはりこのスポーツの頂点すなわち選手の最終目標は、厳然として五輪の金メダルではないこと、そうなっている客観的事情、について解説した上で、日本選手の戦績を総括したい。

 五輪の豆知識で知る方も多いかもしれないが、五輪において日本が最初にメダルを獲ったのはテニスである。1920年アントワープ五輪の熊谷(単複)、柏尾(複)両選手の銀メダルは、当時は金メダルを獲りそこなった(上位を占める米国勢が出場しなかった)として国内からの批判が強かったという。この直後から、功を成したトップ選手(アマチュア)が「テニスサーカス」のプロに転向しはじめる時代となり、1967年までは全豪・全仏・全英・全米の四大大会もプロを締め出して運営されていた。アマとプロの確執を約40年引きずったのち、1968年のオープン化以降、世界レベルのテニス選手は事実上全員プロとなり、1970年代にはプロ選手の労働組合的組織によるワールドツアーがほぼ現在の形で確立された、という歴史を持つ。

 折しもアマチュアリズムの運営による構造的赤字を抱えてきた、五輪という国家的お荷物イベントは、1984年のロサンゼルス五輪で米国主導の大改革を行い、商業ベースの運営と、その集客力の源泉としてプロ選手へのオープン化を打ち出した。サッカーよりも野球よりも早く、この尖兵となったのが、ロス五輪で公開競技として60年ぶりに復活したテニスであった。しかし現在のロンドン五輪に至るまで大会の賞金はゼロ、ランキングポイントは獲得できるが、年間のツアー(世界トップクラスが出るのは30試合程度)では男女とも15番目程度の位置づけの大会であり、歴史の重みも、四大大会(100年以上継続)、国別団体戦(男子は100年以上継続)などに比べれば軽い。何よりも

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筆者

倉沢鉄也

倉沢鉄也(くらさわ・てつや) 日鉄総研研究主幹

1969年生まれ。東大法学部卒。(株)電通総研、(株)日本総合研究所を経て2014年4月より現職。専門はメディアビジネス、自動車交通のIT化。ライフスタイルの変化などが政策やビジネスに与える影響について幅広く調査研究、提言を行う。著書に『ITSビジネスの処方箋』『ITSビジネスの未来地図』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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