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[11]グラウンド整備、8・15の黙とう……試合の「間」は「魔」になるか

深澤友紀 AERA編集部記者

 野球は、試合の主導権をどちらが取るかのゲームでもある。流れを引き寄せようとするときに利用するのが、「間」だ。ピンチに守備のタイムを取ったり、キャッチャーがマウンドに駆け寄ったりして、うまく「間」を取り、悪い流れを絶とうとする。

 だが、不可抗力の「間」もある。それが5回終了時のグラウンド整備の約4分間と、終戦記念日の黙とうだ。この数分間が、試合の勝敗を分けることがある。

 5回が終了すると、甲子園球場には大会歌「栄冠は君に輝く」が流れ、観客はトイレや売店へと席を立つ。グラウンドでは、黄色いポロシャツを着た阪神園芸の職員が鮮やかな手つきで土を整えていく。そのころ選手たちは、ベンチ裏でミーティングしたり、ベンチ前で懸命に素振りをしたりして試合終盤に向けて気持ちを高めている。

 この夏も、その「間」が試合を動かした。大会第4日(11日)の浦和学院(埼玉)―高崎商(群馬)でのことだ。

 5回まで0―0の投手戦だった。ところが、グラウンド整備明けの6回表。高崎商のエース関純は、浦学の先頭打者に死球を出してしまう。さらに犠打で1死二塁になった後、この試合初めての四球。この回ホームランも浴びて3失点し、試合は0-6で浦和学院に敗れた。

 試合後、関は声を落とした。

「グラウンド整備の間に『抑えてやろう』と考えてしまって、力が入りすぎた」

「間」が、彼の投球リズムを崩した。

 そして、8月15日の終戦記念日のサイレンも、試合に大きな影響を与えることがある。以前、私が新聞記者時代に取材した1つの試合を振り返りたい。

拡大8月15日の正午は試合を中断して、選手たちは黙とうする

 甲子園では1963年の第45回大会から、終戦記念日の正午、黙とうが行われている。

 1972年夏。沖縄が5月15日に本土復帰したこの年、沖縄代表の名護高校ナインが、このサイレンに翻弄された。

 8月15日。甲子園初戦で北関東の代表、足利工(栃木)と顔を合わせた。

 8回表。3点差を追いかける名護はこの回1点を返し、なおも1死二、三塁で同点のチャンス。試合の流れは名護に傾いていた。三塁側アルプススタンドの盛り上がりも最高潮に達している。「甲子園名物」ともいわれる沖縄のアルプスだけでなく、3万人の観衆のほとんどが沖縄チームの応援に回り、足利工の選手たちに襲いかかる。

 当時の新聞に、足利工のエース石田真(のちに阪急ブレーブス)のコメントが載っている。

「みんな向こうを応援するだろうとは思っていたが、想像以上だった。マウンドにいると、声援がぼくを責めるように集まってくる。あんな怖い思いをしたことはなかった」

 8回表1死二、三塁、フルカウント。名護の4番平安山(へんざん)良克は8球目もファウルで粘る。石田の速球にタイミングが合い始めていると感じた。「次こそ打てる」。

 その瞬間、審判が突然のタイムを宣告した。球場には「戦没者のめい福を祈って、1分間の黙とうをささげます」とのアナウンス。

 平安山は何が起きたのか状況がつかめなかったが、打席を外して左手でヘルメットを脱ぎ、目をつぶった。

 そして1分後。再び目を開けた。

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筆者

深澤友紀

深澤友紀(ふかざわ・ゆき) AERA編集部記者

1978年、千葉県生まれ。沖縄の県紙「琉球新報」で運動部、社会部、八重山支局長などを務め、2012年から「AERA」編集部記者。新聞記者時代は、離島勢として初めて実力で甲子園出場を果たした日本最南端の高校・八重山商工や、興南の春夏連覇なども取材。これまで沖縄高校野球名勝負物語「白球の軌跡」や「奥武山球場物語」を企画・執筆し、沖縄の高校野球の歴史に詳しい。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです