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東日本大震災と被災地再建――計画論としての復興のあり方について

関西学院大学災害復興制度研究所所長、災害復興学会会長 室崎益輝

 

 東日本大震災の発生から1年5ヵ月が経過した。被災地では、災害復興公営住宅の建設や集団移転事業の土地整備が、限定的ではあるが、ようやく前に進みはじめた。その一方で、移転先の用地の確保がままならないとか、かさ上げの土砂の目途が立たないとか、地域の合意がとれないとかいったことで、復興事業計画の策定ができずにいる集落や地区が無数に残されている。7月末の時点において、復興事業計画の策定までこぎつけたのは、戸数ベースで全体の3割程度にとどまっている。

 地域合意の形成や事業計画の策定が遅れている背景には、時間の壁や空間の壁、さらには財源の壁や人材の壁もあるが、復興の方向をいかに見出し、復興の事業をいかに進めるかのビジョンや方針が大きく揺らいでいるという「計画の壁」が大きい。そこで本論では、今頃になってと言われるかもしれないが、少しでも復興が正しい方向に向かうことを願って、「計画論としての復興のあり方」について改めて論究したい。

復興計画の正しい手順

 今回の復興について、わたしは「思いを先に形を後に」と繰り返し主張してきた。わたしは「高台移転は間違いだ」というメッセージを震災直後に発信したが、それも議論もなく一方的に「高台移転」や「職住分離」という形を押しつけてはならない、という思いからであった。被災地や個々の被災者によっては、高台移転以外の選択肢があるということを伝えたかったからである。多様な条件を踏まえての最適解を見出すプロセスこそ大切だと、主張したかったのである。

 わたしは、復興では被災者の思いを形にするプロセスが大切で、それには被災者相互の、そして行政や専門家を加えたコミュニケーションが欠かせないと、考えている。そのプロセスは「急がば回れ」で、多少の時間がかかっても議論を尽くし、みなが納得できる道筋を、しかも未来につながる道筋を見出すように努めるべきだと、考えている。無論、時間をかけて合意形成に努めたからといって、正しい結論が引き出されるとはかぎらない。しかし、時間をかけなければ、みなが納得する正しい結論に行き着くことは難しい。

 ということで、まずは復興への思いをしっかり語り合うことが欠かせない。その語り合いのプロセスでは、以下の3つの方向性について、順番を間違えないでしっかり議論しなければならない。ステップを踏んで復興への思いを形にしてゆくのである。

 第1ステップでは、地域の将来像を語り合う、第2ステップでは、居住の場所や形式を語り合う、そして第3ステップでは、その実現の手法や制度を語り合うのである。ここで留意して欲しいのは、制度という形は、最後に検討すべきだということである。

■地域の将来像をめぐって

 復興とは、広辞苑などによると、「衰えていたものを再び盛んにすること」である。ところで衰えていたものは、たんに地域の地震や津波に対する安全性だけではない。過疎化や高齢化で地域が衰退していることもある。医療過疎や福祉過疎で地域が脅かされていることもある。漁業や農業といった第1次産業の衰えも、地球温暖化に象徴される地球環境の衰えもある。

 こうした、地域のコミュニテイ環境から地球環境にいたるまでの様々な衰えというか矛盾が、巨大災害によって吹き出てくるのだ。この顕在化した矛盾に正面から向き合い、そこにある地域の衰えを克服しようとすることが、復興なのである。したがって、いかなる矛盾を克服しようとするのか、いかなる社会を創造しようとするのか、いかなる地域を子孫に残そうとするのかが、復興では厳しく問われることになる。

 関東大震災の復興では、脆弱な都市基盤を克服し、学校や公園などの公共施設の近代化をはかることが問われた。北但馬地震後の城崎の復興では、温泉を軸とした地域経済の活性化をはかることが目指された。世界大戦後の広島の復興では、核のない平和な社会をつくることが主要な課題と位置づけられた。それでは今回の東日本大震災では、何が問われ何を目指さなければならないのか。これについての議論が、津波の危険性にかき消されてしまっているのが、とても気にかかる。

 何が問われているかといえば、地球環境問題もあるし過疎過密問題もある。サスティナブルコミュニテイという言葉があるが、持続可能な共生社会をどうつくるかが問われているといってよい。ここでは、自然との共生をはかること、コミュニテイの復活をはかること、車依存社会からの脱皮をはかること、第一次産業の再生をはかること、地域に根差した文化を継承することなどが、求められよう。

 その中で、被災地の東北地方が自立した地域社会として蘇っていく、このことが今回の復興の本質だといえる。復興のプロセスそのものにおいても、被災地である東北地方を日本の経済の発展の踏み台にするという、これまでの過ちを繰り返してはならない。

 防災だけでなく教育も福祉も考えなければならない。さらには、文化も経済も考えなければならない。暮らしの総体を考えなければならない。包括的な社会像の議論を踏まえて、その中で安全性を正しく位置づけること、その上でどこに住むべきかを論じることである。地域の未来像を曖昧にしたままで、安全性だけを論じることは、後世に悔いを残す結果を招きかねない。安全性は、地域の必要条件であっても十分条件でないからである。

 暮らしの総体という全体性あるいは日常性の中に、安全性という個別性あるいは非日常性をどう組み込むかという視点が、ここでは求められる。日常性から切り離された非日常性は、今回の被災の実相からも明らかなように、きわめて脆いことを知っておかなければならない。

■再建場所の選択をめぐって

 災害後の復興では、災害によって被災地の危険性が強く認識されることから、より安全な場所への移転が目指される場合が多い。火山噴火や土砂災害などで壊滅的被害を受けたケースでは、とりわけそうである。また、地震で山腹崩壊や津波浸水が発生した場合にも、移転が行われている。

 火山噴火では、1988年の磐梯山の噴火の際の檜原村の例、土砂災害では、2009年の台湾豪雨による土砂災害の際の小林村の例、地震崩壊では、1970年のアンカシュ地震のユンガイの例などがある。地震津波では、すでにご承知の通り、1896年と1933年の三陸大津波の後の三陸沿岸集落の移転など、数多くの事例がある。

 とはいえ、いつの場合でも移転が行われるかというと、決してそうではない。2004年のスマトラの大津波で大きな被害を受けた、インドネシアのアチェが高台移転をせずに現地再建をはかったことは、よく知られている。日本でも、雲仙の噴火や奥尻の津波の被災地では、大半の地区が高台等への移転という選択をせずに現地での再建をはかっている。高台移転しなかったところは、かさ上げや避難路整備という形で、津波や火砕流からの被害軽減を目指したのである。つまり、安全性を別の形で確保することができれば、移転以外の選択肢もありうるということである。

 安全な場所に居住するということは、先に復興の必要条件といったように、絶対に欠かすことのできない課題である。だが、安全な場所を確保する方法としては、様々な選択肢がある。高台移転だけが答ではない。現住地を放棄して安全な他の場所に移り住む選択肢もあれば、危険な現住地を改造して安全な場所とし住みつづけるという選択肢もある。さらに移転再建といっても、遠隔地移転もあれば近接地移転もある、集団移転もあれば個別移転もある。他方、現地再建といっても、元の場所での再建もあれば別の場所での再建もある。現地の中の安全な場所に集約化する再建もありうる。

 再建といっても多様な選択肢があるのである。それぞれのメリットとデメリットを正しく見きわめ、最適な選択をするようにしなければならない。安全性能面から見てどうなのか、建設費用面からみてどうなのか、建設期間面からみてどうなのか、コミュニテイ面からみてどうなのか、雇用確保面からみてどうなのか、環境共生面からみてどうなのか、そして何よりも暮らしの継続という面からみてどうなのかを、よく考えなければならない。この場合、狭く安全だけを考えてならないことは、先に述べたとおりである。

 安全を狭く考えてはならないというときに、多様なリスクを総合的に考えることが欠かせない。海に危険があるように、山にも危険があることを忘れてならない。自然災害だけでなく、社会災害もあることを忘れてならない。移転の進め方があまりにも強引で、コミュニテイが崩壊してしまうと、支えあうことのできない社会が生まれてしまい、犯罪の激化などを招きかねない。わたしは、アメニテイがあってコミュニテイがあってこそ、セキュリテイが保たれると考えているが、安全の要件としてのアメニテイやコミュニテイの大切さを見落としてはならないであろう。

 移転の是非を問うときに、故郷の持つ意味を考えることも忘れてならない。土地と結びついた生活慣習、伝統文化などを軽んじることはできない。さらには、祖先への思いやりもあろう。多大な社会的犠牲を払っても、福島の原発被災者のみなさんに「故郷に帰る選択肢」を確保しなければならないと思うのは、この故郷とのつながりがきわめて重い意味を持っていると考えるからである。

■住宅と生活再建の制度をめぐって

 将来像や再建の方向が決まれば、その方向を後押しするように、制度を考えなければならない。それは、人間の体に合わせてオーダーメイドの服をつくるようなものである。仮にオーダーメイドが難しくてレデイメードで対応しなければならないときでも、可能なかぎり体型に合う服を探してフィットするように努めなければならない。

 ところが今回は、新たな制度をつくって被災者に合わせようとするどころか、もっとも適切な規制制度を探しだす努力もしないままに、防災集団移転促進事業といった制度を、それがまったく合わない地域に対しても無理やり押しつけようとしている。

 まず、オーダーメイドの必要性について論じておこう。巨大災害の発生は、きわめて低頻度である。次の巨大災害の間に社会も地域の姿も大きく変わってしまう。となると、災害の形も、その発災の環境条件が大きく異なることから、前とは違ったものになる。

 ところが、災害に関する法制度は過去の経験にもとづいて作られているので、新しい災害の実態に合わないことが多い。巨大災害を経験するたびに、災害関連法制度が細切れ的に修正されてきたが、それでも次の災害にはフィットしない。法制度は後追い的になるという宿命を背負わされているのである。だから、被災の現実に合わせて制度をつくって対応することが求められるのである。前例のないことが起きたのだから、前例のない措置で対応しなければならない、と思う。

 次に、既存制度の適用についての配慮についても述べておこう。災害復興住宅について、ごく一部ではあるが、戸建ての木造住宅での建設を認めるという方向が示されていることは、弾力的運用の好例として評価しておきたい。とはいえ、住宅地の移転や再生については、既成の防災集団移転事業や区画整理事業にこだわるあまり、またその制度本来の企図を知らずに杓子定規に運用するあまり、被災者や被災地の思いを封殺してしまう結果になっている。

 コミュニテイを維持した形で移転したい、産業と生活との両立をはかる形で移転したい、地形や風土を継承する形で移転したい、できるだけ早く再建をはかりたい、従前の土地も可能なかぎり有効に活用したい、そして何よりも人口の減少を防ぎたいという被災者のニーズにこたえるには、いかなる制度が適切なのかを考えなければならない。

 ここでは紙面の関係もあるので、既存制度運用の問題として、防災集団移転促進事業の適用にかぎって触れておこう。防災集団移転促進事業(以下、防集と呼ぶ)は、昭和47年の集中豪雨で山間部の数多くの集落が土石流や崖くずれで被災したことを受けて制定されている。それゆえに、そこで念頭にあったのは、瞬間的な土砂崩壊で逃げる余裕のない地域、移転以外に安全化の手段がない地域、過疎化が進み日常的にも機能維持が難しい地域である。

 防集で「全戸の合意」が必要となっているのは、その対象とする集落が小規模で合意形成が取りやすいこと、限界集落を拡大再生産しないためにコミュニテイを維持して欲しいということからである。それゆえに、土砂災害や火山噴火、さらには雪崩などの危険性の高い山間部の小規模集落にはスムースに適用できても、それ以外の地域にはそう簡単に適用できない。

 人口規模が大きく被災範囲が広い地域や、他の安全化の道が残されている津波被災地などでは、防集が最適とは必ずしも言えないのである。先に述べたように、雲仙噴火災害の安中地区、北海道南西沖地震の奥尻地区の岬地区以外で、防集がうまくゆかなかったのはその防集の制度の持つ限界ゆえのことである。この限界というか困難性を見きわめて、防集を使うかどうか、使うにしてもいかに弾力化をはかるかどうか、事前の検討をしっかりしておかなければならない。「はじめに防集ありき」ではない。

 何度も述べているが、復興の目的は防災だけではない。漁業や農業の再生も地域コミュニテイの再建も、さらには医療過疎の解消などもある。こうした課題を総合的に達成する上でどのような制度をどのように組み合わせればよいかを考えなければならない。漁港の整備などを同時にはかろうとすれば、漁業集落整備に係る事業制度をもっと積極的に活用すべきではなかったか。奥尻島の復興がスムーズにいった背景には、漁業集落整備事業を復興の中心に据えたことがあることを、強調しておきたい。

 ところで、今回の震災で、県や市町村が持つべき事業財源も国が肩代わりすることになったので、国庫補助のある既成の事業メニューにこだわる必要はない。補助があろうとなかろうと、結果的に国庫の持ち出しも自治体の負担も変わらないのである。

 だとすると、市町の単独事業として、実態に即した形で新たな枠組みとしての、津波被災地再建事業とか小規模区画整理事業とか被災地コミュニテイ再生事業とかを採用してよいはずである。奥尻島の復興の初松前地区では、町単独の「まちづくり集落整備事業」をつくってかさ上げ現地再建を成功させている。被災の実態と地域の特性、さらには被災者のニーズから、創造的に復興事業のあり方を考えなければならないのだ。

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 室崎益輝(むろさき・よしてる) 関西学院大学災害復興制度研究所所長、災害復興学会会長。1944年8月、尼崎市生まれ。1967年3月、京都大学工学部建築学科卒業。関西学院大学災害復興制度研究所所長。神戸大学都市安全研究センター教授、独立行政法人消防研究所理事長、消防庁消防研究センター所長を経て、2008年より現職。日本火災学会賞、日本建築学会賞、都市住宅学会賞などを受賞。京都大学防災研究所客員教授、日本火災学会会長、日本災害復興学会会長、中央防災会議専門委員、人と防災未来センター上級研究員、海外災害援助市民センター副代表、ひょうご震災記念21世紀研究機構副理事長、ひょうごボランタリープラザ所長などを歴任。著書に、「地域計画と防火」「危険都市の証言」「建築防災・安全、大震災以後」など。

本論考は、「復興アリーナ」(http://fukkou-arena.jp/academic/?p=470/)でもお読みになれます。

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