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番組は誰のモノ?放送局前を占拠せよ!

水島宏明

水島宏明 ジャーナリスト、上智大学文学部新聞学科教授

 テレビもラジオも品のない笑いばかり振りまき、視聴・聴取の「率」を争う。万人受けを狙って事なかれ主義のタブーだらけ。どこの局も金太郎飴みたいにツルリと同じ。大人の視聴に堪えうる個性的な番組なんて最近なくなったなあ。そう思っていたけど、ただひとつ密かにお気に入りにしていた番組があった。珍しく「良心的」で「硬派」の報道番組。他の局は絶対にやらない突っ込み精神でタブーに挑戦。納得いくまで掘り下げてくれる。いいなあ、このゴツゴツ感。それが……急に打ち切られることになったという。評判良かったはずなのになぜっ!? 理由は分からないけど終わることだけは確実らしい。おいおい、そんな話、俺は聞いてないよ。数少ないお気に入りだぜっ。なんとかしてほしい。でも……本当にそんな事態になった時、視聴者やリスナーって、いったい何ができるのだろう? 

 放送局が打ち切りを決めた(とされる)番組について、視聴者・聴取者の側がこぞって「存続を!」と求める前例のない運動が始まった。しかも自らスポンサーになるため募金集めまで呼びかけて……。場所は、今いろんな意味で変化の中心となりつつある大阪だ。

 8月27日、毎日放送の局舎前に100人規模の人たちが集まった。同局のラジオ番組「たね蒔きジャーナル」が9月いっぱいで打ち切りになるという情報で、番組存続を求めて動き始めたリスナーたちだ。その中には、京都大学原子炉実験所の助教・小出裕章氏、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏、フリージャーナリストの西谷文和氏ら知られた顔も少なくない。会社側に対して番組存続を要望する書類を手渡したが、応対に出た総務部長らは「10月改編の記者会見まで社内の機密事項なので一切、答えられない」と回答した。

 「たね蒔きジャーナル」とはどんな番組なのか? 平日21時~22時に関西ローカルで放送されてきたラジオの報道番組で、他の民放局ではごくわずかになった「ラジオ報道」のセクション数人が制作している。ニュースのテーマは浮沈が激しく、世間の関心が高まって「花」になれば大きく取り上げられるが、そうならなければ報道されず埋もれたままに終わる話題も多い。この番組は「花」にならずとも小さな「たね」の段階から掘り起こし、問題提起して行こうというコンセプトだ。扱ったのは水俣病認定患者の線引き問題、アスベスト被害、新型輸送機オスプレイ、TPP、さらには高速バスの危険性など。とっつきにくい問題ばかり他のメディアに先駆けて詳しく報道する。

 「たね蒔きジャーナル」が一躍、名をはせたのは、去年の3・11以降だ。福島第一原発事故の直後、原子炉の中でいったい何が起きているのか、周囲の危険性はどうなのか。放射線は子どもに対してどのレベルなら安心できるのか。国民がもっとも知りたかった情報を、原子力ムラや権威に頼るばかりの東京発マスコミ報道が伝えないなか、反原発運動で知られる小出裕章氏が連日登場し、メルトダウンの進行具合や放射能放出について、圧倒的に早く、詳しく、伝えたからだ。一連の原発報道は非常に評価され、今春、関西を拠点とするすぐれた調査報道に贈られる坂田記念ジャーナリズム賞特別賞を受賞した。「安全神話」の問題や背景を小出氏による批判的な解説で微に入り細に入り伝え、大きな反響を巻き起こしたというのが受賞理由で、ラジオ番組として初めての受賞となった。

 小出氏はこの番組の中で電力会社や政府、御用学者らの姿勢を強く批判してきた。原発安全神話の虚構を暴き、電力の値上げの話ではトータルな原子力コストの隠された高さを、原子力施設の誘致の話ではカネの力で地元住民の口を封じ込めるアコギな手口を、歯に衣着せず暴露する。電力業界からすれば、耳の痛いものばかりだったに違いない。

 毎日放送は2008年、テレビでドキュメンタリー番組『なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所・“異端”の研究者たち』を放送した。小出氏や今中哲二氏ら、京大原子炉実験所(大阪府熊取町)で反原発を貫く助教たち、いわゆる「熊取六人衆」を主人公に、原子力の専門家でさえも不安に感じる原発の危険性を伝えたすぐれた番組で大きな反響を呼んだ(第46回ギャラクシー賞選奨作品)。広告料を通じた民間放送に対する電力会社の干渉が全国的に強化され、反原発運動の担い手たちがテレビ画面から急速に消えていった時代と重なる時期だったこともあり、さすがは毎日放送、と同局への賛辞が続いた。後で関西電力が抗議し、毎日放送への広告出稿を激減させたというエピソードは放送業界では有名な話として伝わっている。こうして毎日放送、小出氏、電力業界とは浅からぬ因縁ができた。電力側からすれば小出氏の存在はけっして歓迎すべきものではないことは確かだろう。

 それだけに「たね蒔きジャーナル」の打ち切りがもし本当なら、背景に電力側の「圧力」や毎日放送側の「配慮」がなかったのかが非常に気になる。おりしも大飯原発の再稼働に合わせて6月から関西電力のテレビCMが再開されたばかりのタイミング。在阪マスコミのある営業担当者によると、去年の福島第一原発事故の後、電力業界は自粛ムードでしばらく鳴りを潜めていたが、関西エリアではこのところ広告出稿を増やす傾向にあり、電力側が各マスコミの個別の報道内容などについて「あれはマズイ」などと露骨に口を出すようになっているという。社説に脱原発を掲げている新聞社の営業部員は関西電力の広報部から呼び出される頻度が最近増えたと明かす。そうしたクレームを社内で逐一報道セクションに伝えるのか、あるいは伝えないのかなどはそれぞれの社や担当者の判断ということになるが、もともと「たね蒔きジャーナル」を苦々しく感じていたはずの電力会社がこうした動きのなかで何も言わないのは考えにくい。なんらかの意向が伝えられたはずとみるのが自然だろう。 

 福島第一原発事故の後、一般国民のマスコミ不信は強まるばかりだ。事故前はスポンサーである電力会社に配慮するばかりで、原発の危険性やいざという時の体制の不備を十分に報道しなかった。原子力ムラに加担していた点でマスコミも同罪。原発に関して批判的に報道する市民メディアと比べると、既存マスコミはジャーナリズムとして死んでいる、などと手厳しい。

 そんななか「たね蒔きジャーナル」は大手マスコミにあって、早い段階から御用学者ではなく、小出氏を出演させてきた数少ない存在だ。そんな番組があったことは、信用が地に墜ちたマスコミ全体にとって「どっこい生きていた」という存在証明だ。放送界全般にとってもわずかな光明といえる。もし打ち切るならば、いったいなぜなのか、毎日放送はリスナーが納得できるよう説明する責任があるだろう。

 もちろん、今回の打ち切り騒動の背景の一つに「ラジオ」というメディアのビジネスモデルが現在、危機的な状況にあるという環境が大きく影響していることは想像に難くない。毎日放送のようにラジオだけのために報道の専従スタッフを置いているケースはテレビ・ラジオ兼営局では珍しい方だろう。私がかつていた北海道のテレビ・ラジオ兼営局も、かつてはラジオ報道のセクションを持っていたが、20年以上前に統合され、専任スタッフも消えた。ラジオは別会社になって経費も削減され、ラジオ報道のドキュメンタリー制作のノウハウは継承が難しくなっている。一般的に放送局は経営が苦しくなっていくと、スポンサーに強く言えなくなり、その意向を無視できなくなっていく。

 社会的には強く支持されているが、社内的には視聴率や営業面などで必ずしも高く評価されていない番組が打ち切りの瀬戸際になったらどうすればよいのか。実はそんなシミュレーションを頭の中でやったことがある。私が長く制作スタッフの中にいた日本テレビの「NNNドキュメント」。1970年に始まった民放最長寿のドキュメンタリー番組だ。局の外の人たちからは「日本テレビの最後の良心」という賞賛を頂戴することが多かった。様々なテーマについて、国家の政策がもたらす理不尽を、翻弄される市井の人たちの側から描くことが多い報道ドキュメンタリー。日曜深夜の遅い時間帯の放送で、視聴率数パーセントでも、「ながら視聴」でなく、テレビ受像機と一対一で見てくれる視聴者がほとんどだ。放送の後には「こういう良い番組がなぜゴールデンアワーに放映されないのか。もっと早く放送できないのか」という要望が毎回、山のように寄せられる。

 そんななか、「NNNドキュメント」はその時々の幹部から「それなりの視聴率」を求められたり、「『古くさい反権力ポーズの問題提起型』から脱皮して『明るい希望を見せて元気が出る』枠に」とマイナーチェンジを求められたり、と紆余曲折を経て、現在もなんとか存続している。だが、その時々の社内環境や経営者・幹部の考え方次第でこの先どうなるかは分からない。会社の外で意義ある番組としてどんなに評価されていても、民間会社で放送している以上、経済合理性や局内の事情(たとえば深夜帯で新しい若者向けの番組を開発するなど)、あるいは「経営判断」次第で、ある日、消えることはありうるだろう。

 万一、打ち切り話が出た時に、社外から存続を訴える声が上がるだろうかと想像してみた。系列の地方局にとってこの枠は自前のドキュメンタリーを全国放送する数少ない機会だ。番組枠がなくなると全国発信の場は極端に狭まるので、打ち切りには系列局全体が反対するだろう。一般視聴者も声を上げるに違いない。なぜならドキュメンタリーを通じて、世の中で起きているリアルな現実を初めて知ったという人は少なくない。最近は若い世代でもドキュメンタリーへの関心が強まっている。潤沢な予算のNHKスペシャルでもやらなかった問題提起を地方局の地味な継続報道の積み重ねから行う回もある。民放で数少ないドキュメンタリー枠への支持は視聴者からの毎回の反応でもうかがえる。一方、いったん会社として打ち切りを決めたら、視聴者らがどんなに存続を求めても「はい、そうですか」と撤回することなどありえないというのも放送局で長年働いた実感だ。

 それでも「たね蒔きジャーナル」存続運動に注目するのは、番組というものが一義的に会社の私有物でありながら、広い意味では社会全体の公共物でもあるという性質、つまり公共財産としての性質を合わせ持つからだ。聞く側がお金を拠出して自らスポンサーになるという発想も日本ではなかった発想だ。8月末で330万円以上のカンパが市民から寄せられている(http://www.tanemakifan.net/)。市民が放送局の番組制作に参加するパブリックアクセスの権利は日本では認められてこなかった。欧米ではこれを認めている国が多く、私が以前、駐在したドイツでも市民グループが放送局に持ち込んだ番組がノーチェックで放送されていた。募金による番組存続運動も、リスナー集団である市民グループが番組枠を買い取るという構想だ。一種のパブリックアクセスとして新たな道を切り拓く可能性を秘めている。公共の電波を使わせてもらっている立場の放送事業において、経営者もリスナーや視聴者の意向を無視してすまされる時代は終わっている。

 視たいものを視る。聴きたいものを聴く。視聴者も聴取者も「受け身」ではなく、主体的に「選択する」。ネット時代でそんな気運が強くなっている。「たね蒔きジャーナル」もYouTubeなどネットとの連動を意識的に行い、エリア外の住民も含めてリスナーが自ら「選択する」という可能性を模索してきた。一連の原発報道については関西に限らず、全国的にファンが存在するのは、こうした努力の賜物だ。

 会社に所属していても、番組出演者や制作者は会社員としての顔だけでなく、一人ひとりの人間として、一人ひとりの表現者として、一人ひとりのジャーナリストとしての顔を持っている。スタッフ間のそうした顔が個性的で独創的なものに組み合わされた時に優れた番組は生まれる。番組の根本は様々な個性が集まった時に主体的に生まれる「化学反応」なのだ。逆に番組打ち切りという道をたどると、そうした自由で独創的な雰囲気はみるみる失われていく。そうなってしまうなら、残念なことだ。

 「たね蒔きジャーナル」の打ち切りについて内部の情報は漏れてくるが、毎日放送側は正式な記者発表(9月19日に設定されている)の前には「何も言えない」という姿勢だ。番組改編について外部から

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