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闘う地震学者、もの言う金属材料学者――3・11以前から原発推進という国策に挑んできた人たち

大久保真紀 朝日新聞編集委員(社会担当)

 2007年10月26日。静岡地裁の前で、地震学者の石橋克彦さん(68)が記者たちに囲まれていました。自らも証人に立った、浜岡原発の運転差し止め訴訟で原告側に敗訴が言い渡された直後のことです。

 「この判決が間違っていることはやがて自然が証明するだろうが、そのときは私たちが大変な目に遭っている恐れが強い」

 そう、石橋さんは語りました。

 それから、3年5カ月。昨年3月11日に東日本大震災とそれに続く福島の原発事故が起こります。石橋さんのコメントは、いまも収束とはほど遠い未曽有の原発事故を予言した形になりました。

 石橋さんは東大の助手だった1976年に「東海大地震説」を提唱して、一躍注目された人物です。ですが、その後は20年近く、建設省建築研究所で、途上国からの留学生向けの授業のカリキュラムづくりなどをしていました。石橋さん自身は、研究所があった茨城県つくば市でのいい環境で子育てができたこともあり、全く気にはしていませんでしたが、周囲からは「飛ばされた」という声もあがったそうです。

     ◇

 その建築研究所にいた94年夏、石橋さんは首都圏直下が大地震活動期に入る公算が強いとして、一極集中型の大規模開発に警鐘を鳴らす本を著します。岩波新書『大地動乱の時代――地震学者は警告する』です。この本の中では、建物の崩壊、津波、液状化、火災などさまざまな影響を指摘しました。

 そして、半年もしないうちに、阪神・淡路大震災が起こります。石橋さんのこの著は一気に世の中の注目を集めました。

 地震学者の石橋さんにとって神戸の地震は、いつかはわからないけれど、いつかは起こるであろうと考えられるものでした。震災直後にはそんなことは言えませんでしたが、請われて神戸大学教授になり、96年に居を移した関西でそのことを話すと、「なぜ事前に教えておいてくれなかったのか」という被災者の声があると言われました。

 そう言われた石橋さんは、はたと考えます。「まだ自分が書いていないことはあるだろうか」と。

 自問すると、「原発」の問題が浮かびました。

 以前から少しは気にかかっていた問題ではあります。しかし、石橋さんの専門は地震です。原発の問題は、それこそ原子力専門の工学者が「大丈夫だ」と言っている、と自分を納得させていた面がありました。

 「地震学から見て心配なことを示しておくことは悪いことではない」。石橋さんはそう考え、原発について調べ始めます。資料を集めて読むと、原発を立地するにあたっての地震や活断層の国の想定が甘いことが、すぐにわかったそうです。

 ちょうどそのころ、石橋さんのもとには、原発の問題に取り組む東京都武蔵野市在住の主婦、佐藤弓子さん(75)たちが面会を求めてきました。資料を送ってきたり、知人の地震学者から会ってやってくれと連絡があったり、佐藤さんたちはとにかく熱心でした。石橋さんは上京した折に何とか時間を作って、東京駅構内の喫茶店で佐藤さんたちに会いました。97年6月のことです。

 1時間ほどだったでしょうか。佐藤さんたちは矢継ぎ早に質問します。「地震が起こったら原発はどうなるのか」「東海地震が起これば浜岡原発は大変なことにならないか」「本当に大丈夫なのか」「地震の専門家は何も言っていないから教えてほしい」――。佐藤さんたちは必死の形相でした。石橋さんは、市民の不安の大きさと、危険性を知りたいという強い気持ちを感じました。

 「専門家としての存在価値を問われている」。話をしたり、資料をもらったりした佐藤さんたちとのやりとりは、石橋さんにそのことを強く意識させました。すでに原発の危険性について気づき、それを訴えなくてはいけないのではないか、と自分の中では考えていました。その自分の中での気づきと、佐藤さんたちからの専門家への期待の大きさを感じたことが、石橋さんの中で共鳴します。

 石橋さんは佐藤さんにファクスをしました。

 「これまでゴマ化してきた思いに決断を迫られている感じです」

 

 この年の秋、石橋さんは雑誌で「原発震災」という言葉を使い、地震による原発事故と震災の複合災害への警鐘を鳴らしました。

神戸大名誉教授の石橋克彦さん(伊ケ崎忍撮影)拡大

黙っていることは「原発は大丈夫だ」と言っていることに等しい、と考えたのです。

 だれも指摘してこなかったことです。原発の専門家でもない自分がそれを指摘することに対する反発はあるだろう。しかし、専門家としての責任を考えると、黙っていることは罪だと思いました。

 失うものは何もない。村八分になろうが、学会からはじき出されようがいい。そう覚悟したうえで、石橋さんは原発という国策への挑戦を始めました。

 以後、石橋さんは原発訴訟で証人になり、法廷で、講演で、論文で、「原発震災」について説いてまわりました。しかし、その石橋さんを、原発推進派の学者は、「原子力学会では聞いたことのない人」と評したり、「石橋論文は保健物理学会、放射線影響学会、原子力学会でとりあげられたことはない」などと発言したりしました。

 石橋さんは地震科学の研究者として、自分の知識や考え方を極力社会に役立てたいと思いました。外から批判するだけでは足りないと、01年には原子力安全委員会の耐震指針検討分科会の委員にもなります。ですが、委員会には批判的な意見を言う人はほとんどいません。自分の意見を事あるごとに言ってきた石橋さんでしたが、06年8月には活断層の調査手法などをめぐり指針改定を最小限にしようとする委員会の方針に納得できず、委員を辞めます。石橋さんは、「専門家として社会への責任が果たせない」という思いでした。いくらいっても聞く耳をもたない委員会に対しての抗議の姿勢を示すものでもありました。

 石橋さんは、福島の原発事故後は国会事故調委員も務めました。ですが、いま、徒労感は否めない、と言います。官邸前の金曜デモや10万人を超す反原発集会など脱原発への世論がうねりのように広がっているのに、その民意が政治に反映されていない、と感じるからです。

 石橋さんは8月末、東京都内であったシンポジウムでこう言いました。

 「福島事故の最大の教訓は、マーフィーの法則でいう、起こる可能性のあることはいずれ起こるというのではなく、起こる可能性のあることは今すぐにでも起こると思わなくてはいけない、ということです」

 警告する地震学者。石橋さんは自分の信念に従って発言を続けていくつもりです。

     ◇

 金属材料学が専門の東大名誉教授、井野博満さん(74)も自分の分野で原発の危険性について言及してきた研究者です。

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筆者

大久保真紀

大久保真紀(おおくぼ・まき) 朝日新聞編集委員(社会担当)

1963年生まれ。盛岡、静岡支局、東京本社社会部などを経て現職。著書に『買われる子どもたち』、『こどもの権利を買わないで――プンとミーチャのものがたり』、『明日がある――虐待を受けた子どもたち』、『ああ わが祖国よ――国を訴えた中国残留日本人孤児たち』、『中国残留日本人』など。

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