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東日本大震災から今日までいかに生き延びてきたか――陸前高田の仮設住宅で暮らす女性たちの座談会

聞き手:荻上チキ

 東日本大震災から1年半以上が経過した。被災した人たちの多くは今なお、慣れない避難先や仮設住宅での暮らしを余儀なくなくされている。そこにはなかなかメディアを通じて表に出てきにくい苦労が沈潜しているはずだ。評論家の荻上チキ氏は7月下旬、岩手県陸前高田市の仮設住宅を訪れ、そこに暮らす3人の女性とともに大震災からの日々と今日、そして明日を語り合った。女性たちの話から浮かび上がってくる被災者らの暮らしとは――。

※この記事は「復興アリーナ」と連動しています

荻上 本日は、陸前高田の仮設住宅に住んでおられる、子どもを持つ女性のお三方にお集まりいただきました。みなさんは、震災から今日に至るまでの約一年半、様々な環境の変化を体験されていらっしゃるかと思います。今日は、被災直後から現在までの生活の変化や、支援で助かったこと、困ったことなどを座談会形式でお話いただければと思っております。

色々と話は尽きないかと思いますが、今回特に伺いたいのは、被災者女性特有のご苦労についてです。たとえば避難所や仮設住宅では、男性がリーダーに選ばれることが多いため、場所によっては、生理用品であったり、更衣室であったりと、女性への配慮が行き届かなかった場面もあると耳にします。

今回の避難・仮設生活から、どんな教訓を残せるだろうか。それを考えるために必要な視点、ヒントを、みなさんからいただけたらと思っております。それでは、最初に簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。

石川 竹駒町の滝の里工業団地仮設住宅に娘と2人で住んでいます。石川弘美です。43歳です。仮設住宅には6月7日に入りました。

船砥 船砥千幸、42歳です。私と子ども4人、孫1人の6人家族で仮設住宅にいます。私も娘も、いわゆるシングルマザーです。

吉田 吉田たみえといいます。石川さんと同じ滝の里工業団地仮設住宅に住んでいます。52歳です。家族は6人で、2人の娘は大学で他の場所にいるので、4人で暮らしています。

荻上 早速ですが、まずは船砥さんから、震災当日から仮設住宅に入るまでの様子を詳しくお話しいただけないでしょうか。

■避難先で感じる居心地の悪さ

船砥 私はこの仮設住宅に入るまで、いろいろなところを転々としていました。震災当日は高田高校第2グラウンドで一夜を過ごし、次の日は、高寿園に移動しました。そこから、大船渡まで歩いて行くつもりだったのです。

拡大船砥千幸さん

でも、夕方に兄夫婦が迎えにきてくれたので、兄夫婦の家に向かいました。しかし兄夫婦の家も目の前まで津波が来ていたので、物資などが不足していましたから、その後は大船渡の避難所に行きました。

荻上 最初期の3か所の避難所で、どんな違いを感じられましたか。

船砥 食事がまったく違いました。高田高校では、最初に乾パンと水砂糖を2個ずつ、高寿円では、試飲用の小さな紙コップに、少しだけのお味噌汁を貰いました。それが大船渡の避難所だと、おにぎり2つにおかずが3種類くらい盛られたお皿が渡されて。「ここには食べ物があるんだ!」と驚きました。

あとから聞いた話では、どうやら津波で家を流されなかった人たちが、食料を持ち寄って炊き出しをしてくれていたようです。孫のミルクも保育園から貰えて助かりました。

ただ私たちは高田から避難しているので、大船渡の避難所にいるのが悪い気がして、結局、兄夫婦の家にお世話になることにしました。

荻上 お兄さんは何人家族ですか。

船砥 2人暮らしです。

大船渡では、一般家庭に物資が配られなかったので、貯蓄されている食べ物で生活しなくてはいけませんでした。日に日に食料が底をついてくるのを見て、「私たち6人がいなければ、2人はもっと長く食べていけるんだ」と思い、兄夫婦の家も居心地の悪さを感じるようになりました。

2人は「焦らないでここにいればいい」と言ってくれたのですが、子どもたちに相談したところ、「高田の学校で卒業したい」と話していて、結局いつかは高田に戻ることになるのだからと思い、高田の避難所に戻ることにしました。

■4カ月間、手持ちの2000円を死守

荻上 本当に転々としていますね。それから、どのくらい高田の避難所にいらっしゃったのでしょうか。

船砥 仮設住宅の抽選が当たるまでの、だいたい1か月くらいです。

一度、市役所に「避難所はもう一杯で入れません」と断られています。「車があるのなら、大船渡から学校に通ってください」と言われて。全財産が2000円しかなく、ガソリン代もないことを話したら、「福祉関係でお金が借りられます」と。

仕事がなく、このさきどうなるかわからないのにお金を借りられるわけがないじゃないですか。それなのに、「見通しがついたら借りてください」「1年据え置きだから大丈夫です」と言われて、さすがにカチンときて。いったい誰が、1年後の私に仕事があるかどうかわかるんだと。仕事がなかったら代わりに払ってくれるのかと、ほとんど泣き落としで1時間くらい頑張ったら、部屋はバラバラになりましたが、なんとか避難所に入れてくれました。

荻上 いま話題にもなっている生活保護はやはり申請しづらいものでしたか。

船砥 もともと貧しかったので、震災前にも生活保護の話は出ていたのですが、そのときは車を持っていたために申請が通りませんでした。でも、子どもがたくさんいると病気になったときに病院に連れていけませんし、生活するうえで車は必要なんですよね。

荻上 車が必要な地域で、車を持つことを禁じられたら、外に出るなと言っているようなものになってしまいますね。

船砥さんは、仮設住宅にはいつ頃入られたのですか。

船砥 5月8日です。

仮設は物資がもらえるから、ある程度の生活ができると聞いていたのですが、1週間たっても届きませんでした。だからよそで物資がもらえるという話を聞いたら長女と一緒にもらいに行っていました。十数日後に、ようやく布団とテレビが届きました。

石川 物資が届いてないと、部屋はがらんどうだよね。

船砥 そう。電気はついたし、エアコンもついたけど、冷蔵庫も洗濯機も、机もなくて。ご飯は段ボールの上で食べていました。

荻上 物資が届くまでは、手持ちの2000円を切り崩して生活していたんですか。

船砥 いえ。2000円にはいっさい手を付けずに、貰ったものだけで生き繋いでいました。7月末に、浜のミサンガ(http://www.sanriku-shigoto-project.com/)のお給料が入るまで、お金は使いませんでした。

荻上 ミサンガの話はどこで知ったのですか。

船砥 友達に聞いてまわって、仕事を探していたんです。

本当は落ち着いた頃に東京に出稼ぎに行くつもりでした。昼は工場で働き、夜はコンビニでバイトして、家族にお金を送るつもりでした。でも小学生の娘が津波のストレスでダウン気味だったので、置いていくわけにもいかず。そのときにミサンガの仕事を知って。本当にラッキーでした。

今だから言える話ですが、給料がもらえるまで、3回ほど子どもたちに手をかけてしまおうかと思ったことがあります。最初は「私が死ねばこの子達はもっと食べられる」と思ったのですが、「この子たちをおいて死んでも、やっぱり苦労するんだろう」と思って。寝静まったころに、どれから手をかければいいかなどを、まじめに考えていたんですよ。騒ぐかもしれないと思って、仮設に火をかけることも考えて。そこまで追い込まれていたんです。

私は、単純な性格なので、寝て起きたら、津波だって生き延びることができたんだ、国が国民を見殺すわけがない、世の中の誰かがきっと助けてくれるって、生きる気力がわくんです。でも夜になればまた死にたくなる。その繰り返しです。

でも、いろいろな人に助けられました。避難所で一緒だった人が、「パンやるぞ、お菓子あるぞ」って声をかけてくれて。だから私もお返しに、うちで洗濯していきなって言って。

荻上 ミサンガの、初めてのお給料はどのくらいでした?

船砥 2万円です。本当に嬉しかったです。

給料が入った日に、2万2000円を持ってみんなでローソンに行きました。「好きなものを買ってやる!」と言ったら、子どもたちはからあげくんを1個ずつ食べて、「うめえ!」と言いながら食べていました。1人1パック、ではありません。1パックだけ買って、それをみんなで1つずつ分けて食べたんです。

それを見て、「かわいそうな思いをさせているんだ」と、悲しくなりました。私はそのとき、せっかくだからビールを買おうと思っていて、「いいのかなあ」と思っていて。申し訳ないから棚に戻そうかと思っていると、子どもたちは私が呑むのを知っているので「もっと買っていいよ」「せっかくだから呑んでよ」って。

結局、その日は2000円しか使わなかったので、残った2万円で、お米と日持ちしそうなレトルト食品を2万円分買いました。これで次の給料まで食いつなぐつもりでした。あとで避難所のみんなに、「カレーももらってなかったの?」と言われたのですが、私たちは1ヵ月しか避難所生活をしていないので、物資をほとんどもらっていないんですよね。

吉田 3カ月いたら結構もらえたよ。

船砥 そう。だからみんながお米を持って仮設住宅にきたときは、「え!米!?」ってびっくりした。

荻上 時期や時間で違いが出てきてしまうんですね。仮設住宅に早く入ることや、親戚が迎えにきてくれることは、一見するとハッピーなことに思えるけれど、避難所に物資が集中して届く場合など、一概にそうとは言えない状況があるわけですね。

船砥 そうなんです。いまはいろいろな物資がくるようになって、ある程度の生活はできるようになりましたし、ミサンガで収入も得ています。ですから、みんなに助けられてきた分、今度は、たとえば家があって、義捐金や物資がもらえない人たちのために事務所を構えて、物資の配布などの活動をしています。

■紙おむつをかぶって寒さをしのぐ

荻上 石川さんはどのように過ごしていらっしゃったのでしょうか。

拡大石川弘美さん

石川 当日は、お姑さんとお舅さんの3人で、津波から逃れるために、県立病院の屋上で一晩過ごしていました。病院は水浸しで、何もなかったので、紙おむつをかぶって寒さをしのぎました。次の日、ヘリコプターで救助に来てもらえたので、中学校の避難所に移動して、仮設住宅の抽選が当たるまでその避難所にいました。

荻上 娘さんとはいつ会えましたか。

石川 中学校に移動した3日後ですね。学校は大丈夫と聞かされていたので、あまり心配していませんでした。ただ、消防団の夫と連絡がとれなくなっていたこと、実家の両親が逃げられなかったことを聞いていて、そちらの方は不安でいっぱいでしたね。

でも、結局、3人とも駄目で……。それを知ったときは、頭が真っ白になりました。とりあえず、あとはもう、娘のことしか頭にありませんでした。

荻上 大変でしたね……。避難所の雰囲気や物資の整い具合はいかがでしたか。

石川 私の場合は、親戚や友達がいろいろと持ってきてくれたので、避難所の物資はあまりもらいませんでした。ただ、持っていない人は、体育館や事務所から布団などを貰っていたようです。

荻上 食事はいかがでしたか。

石川 病院の屋上に避難していたときは食事がなくて、次の日のお昼ごろにようやく、自衛隊の方にいただいた水と乾パンを食べました。中学校に移動した次の日の夜は、おにぎりとお味噌汁と、から揚げを一個、貰いました。

荻上 それから2ヶ月近く避難所生活をされてきたわけですが、雰囲気はどのように変わっていったのでしょうか。

石川 避難所は、体育館とその2階にわかれていました。私たちは2階にいたのですが、やはり体育館に比べたらよい環境でしたし、気の合う人たちだったので、嫌な思いはしませんでした。

■プライバシーのない空間

荻上 仮設に移動してからのお子さんの様子はどうでしたか。

石川 結構、元気でしたね。やっぱりどこでも住めば都で(笑)。娘も安心したのか、初日からすぐに眠れました。それまではやっぱり眠りにくくて。

荻上 体育館ですと、消灯してから足音やいびきが問題になるかと思いますが。

石川 そうみたいですが、私たちは2階にいたので、体育館の様子は知らなくて。

吉田 ある避難所ではいびきが問題になって、いびきの酷い人を隔離したところみたいです。

一同 (苦笑)

船砥 私がいた避難所だと、夜、トイレに行く人の足音が途切れませんでした。ペタペタと足音が聞こえてきたかと思うと、何秒もしないうちにまたペタペタと。それが朝まで。気にしだすと、眠れないですね。

あとやっぱり、いびきも問題になりました。それと、ときどき奇声をあげる人が結構にいました。最初はみんな我慢していたんだけど、だんだん、「いびきがうるさい」と喧嘩になったり。些細なことでいざこざが起きていました。食べ物が遅いだとか、量が違うだとか、掃除していないとかでも、トラブルになっていましたね。

石川 体育館だとストレスが溜まりやすいからと、日中だけ、2階に来る人もいました。やっぱり、教室のほうが、いくらか環境がよかったんだと思います。体育館は、いくら間仕切りができたとはいえ、大きなワンフロアに変わりないですから。

船砥 体育館は、四方から視線を感じるので、なんだか呼吸もしづらくて。ちらっと横を見たら誰かと目があうので顔を動かせないんです。だから読むでもない新聞をずっと広げて、何かをしているふりをずっとしたりして。

昼間でも、横になろうかと思っても、視線を感じるためになかなか横になれませんし、逆にみんなが寝ているときは、起き上がると視線を感じるので、屈むような格好でいたり。何かを食べようと思っても、みんなが見ていると思うと食べにくくて。ですから子どもたちが外で遊んでいるあいだは、車か2階に行っていました。

石川 船砥さんの家は小さいお子さんもいるのに、なんで2階に入れないのか、不思議だったよね。

船砥 小さい子どもを入れてくれる部屋があって、小学生1年生の子どもはそこにいました。でも、私は入れなかったんです。2階にいる人たちも、「つめれば入れるのに」と言ってくれていたんだけど。

吉田 うちのじいちゃん、ばあちゃんみたいに、知らないふりして入っちゃえばよかったのに

荻上 震災直後、心のケアが重要だといったこともさかんに言われましたが、そのためにもまずは、十分な部屋、十分なプライバシーの確保が重要ですよね。

船砥 せめて、間仕切りのための段ボールを早く支給して欲しかったと思っていました。

荻上 段ボールは、いつ頃支給されたのでしょうか。

船砥 結局、私が避難所をでる前までは支給されませんでした。途中から避難所にはいった私は、1か月くらいしかいませんでしたが、それでも十分ストレスになりました。ということは、最初から入っていた人は、3カ月以上仕切りのない生活をしていたことになります。これは大変だと思いました。

石川 2階は支給されませんでしたし、たぶんされても立てなかったと思います。

船砥 壁が待ち遠しくて、「間仕切りがきたら、ここにこうやって体を隠そう」という想像をよくしていました(笑)

吉田 誰にも見られないで生活したいっていうのはあるよね。

船砥 大船渡の避難所に友達を探しに行ったとき、体育館に、1家族ずつテントを張っていて。これはいいなあと思いましたね。

石川 でも屋内テント、暑かったってさ。

荻上 そういうデメリットもあるんですね。テントというのはドーム型のものですか。

吉田 そうです。サンビレッジ高田という避難所もテントを張っていたみたいです。ただそこは、雨が降ると雨漏りしていたみたいで。

石川 でもサンビレッジは人気だったよね。誰かが抜けたら、すぐに他の人が入ってたもん。

吉田 サンビレッジが一番いいブースだってみんな言ってたね。毎日シャワーを浴びられたみたい。

荻上 どこの避難所に近かったかで環境がまったく違ってくるんですね。避難所のよしあしも、口コミで話題になるほどに。

■部屋割りと班

荻上 では、吉田さんのお話をお聞かせください。

吉田 11日は、2番目の娘が翌日に大学入試だったので、前泊させようと盛岡まで車で送っていたところ、地震が発生しました。そのとき1番上の息子とじいちゃんは家に、もう1人の息子は中学校、旦那は盛岡で仕事でした。

拡大吉田たみえさん

地震がおきてからすぐ、ケータイで「はやく高台に逃げろ」と電話をしました。娘を送った後に、近くのコンビニで手当たり次第、パンや飲み物を買って帰りました。

途中、家が倒壊していて道が通行止めになっている場所があり、消防の誘導にしたがって、道に迷いながらも、なんとか夜の10時頃に、親戚のおじさんの家に着きました。翌朝、初めて津波の被害をみて、びっくりしました。娘が通っていた小学校から煙が出ていて、「体育館が爆発した」とも聞いて。

私は持病があるのですが、薬がないことに気が付いたんです。このままだと娘やじいちゃんを探す前にへたばってしまうと思い、いったん車で盛岡に戻って、病院で薬を出してもらいました。

その帰りに、ガソリンスタンドによろうとしたのですが、停電でほとんど営業していませんでした。一か所、手回しで給油してくれるスタンドを見つけて、長蛇の列に2時間ほど並んで、10リッターだけ買いました。

次の日に、中学校の体育館に、「私は大丈夫、おじさんの家にいる」と伝言を書きました。だんだん知り合いも集まってきて、息子のいる小中学校も旦那の会社も、じいちゃん、娘も無事と聞いて、ほっとしました。うちの旦那も、石川さんと同じく消防活動をしていたのですが、運よく助かって。夜に会いに来てくれました。

翌朝、じいちゃんと子どもが刑部小学校にいると聞いたので、そちらに向かって、3カ月ほど生活していました。

荻上 避難所生活はいかがでしたか。

吉田 学校の先生が、地区ごとに4つの部屋にわけてくれたんです。おかげで、同じ地区の顔見知りばかりでしたから、和気あいあいとしていました。ただ、人数の少ない地区で集まった班はいろいろとあったみたいです。

荻上 立場も住む場所も違いますからねえ。

吉田 あとは学校の先生がいると、どうしてもいろいろと言えないときもあって……(笑)

一同 (笑)

吉田 刑部小学校の校庭の隅にある、地区のコミュニティーセンターには、刑部地区で被災した人たちが避難していました。

最初のころは、コミュニティーセンターにある台所で、そちらに避難している人たちが食事を作ってくれていたのですが、やはりそれは気が引けるので、こちらも教室ごとに班を作って、食事の当番を決めました。

学校の先生に機転の利く人がいたおかげで、いろいろなことが効率的になって、生活スタイルが改善されていきました。発電機はすぐにきたのですが、やはり水が足りないので、たとえばトイレでは、おしっこのときは流さないで、大便のときに流すといったルールも少しずつ作られていきました。

荻上 ルールは、先生だけで決めたのでしょうか。それとも、皆さんで話し合って決められたのでしょうか。

吉田 班長同士で一日に一回班長会議を開いたり、刑部小学校側とコミュニティーセンター側でそれぞれ会長を決めて、話し合いなどをして、決めていました。

荻上 どのような男女比になっていましたか。

吉田 最初は、会長は男性、班長は男女1名ずつでした。でも、徐々に仮設住宅から出ていく人が増えて人数が減っていったので、女性が会長を務めることもありました。特に固定されていたわけではありません。

荻上 女性ならではの苦労はありましたか?

吉田 私はあまり感じませんでした。もちろん全然ないわけではなくて、料理を作りに行かない人もいたし、料理を作れない人もいましたから、そうしたことが女性同士の関係を微妙にさせたりしていました。あと、仕事に復帰した人たちは朝から仕事に行くため、毎回、仕事が無い同じ人が料理を作るようになってしまい、不公平だという苦情もでていました。そういう苦情をまとめるため、上に立つ人はいろいろと苦労されていたみたいです。

荻上 教室は間仕切りされていたのでしょうか。

吉田 いえ、ありませんでした。真ん中にストーブをおいて、みんな布団を敷いて寝ていました。ストーブと言えば、朝に生卵を貰うことがあったのですが、生卵をそのまま食べるのは怖いので、アルミホイルをストーブに敷いて、みんなで目玉焼きを焼いたこともありました。そのくらいわきあいあいとしていましたね。

食事はパン、ごはん、うどんなど、炭水化物が多かったため、車を持っている人が、大船渡や一ノ関に買い物に行くときに、野菜を買ってきてもらいました。家庭科室の調味料を借りて料理もしていました。

石川 うちは毎日出てくるクロワッサンをいかに飽きないように食べるか苦労しましたよ。ハムを買ったり、チーズを買ったり、ゆで卵を砕いでマヨネーズを混ぜてつけたり。それでも山ほどあまったので、たまに船砥さんにあげて(笑)

船砥 「うちは食べるよ!」みたいな(笑)

拡大

■必要のないボランティアとは

荻上 震災以降、様々なボランティアや行政サービスが来たかと思います。そのなかには、助かったサービスもあれば、必要を感じないサービスもあったかもしれません。良かったもの、悪かったものについてお話ください。

船砥 うーん、これはいらないなってものはなかったかなあ。

荻上 なんでもそれなりに助かりましたか。

船砥 助からなくても、私たちみたいに小さい子どもがいると、誰かが来てくれるだけで、子どもは喜ぶんです。ボランティアのお兄さんが食べ物やお菓子をくれても嬉しいし、たい焼き屋さんがきたときは、「あまり好きじゃないから食べないだろうなあ」と思いつつも、いただいたり。

石川 お汁粉屋さんも来ていたよね。

船砥 それも食べない気がするんだけど、とりあえず貰いに行っていました(笑)。

吉田 なにか来れば、とりあえず列に並んでいたよね。

船砥 そうそう。子どもたちは、列に並ぶのが楽しみになっているところもあって。

石川 そう。子どもが並んでくれるので、「じゃあみんなのぶんも買ってきて」って頼んだり(笑)

荻上 ボランティアが来ることが、イベントになっているんですね。

船砥 そうそう。警察が巡回しているだけでもイベントなの。見かけると「わー!警察だ!」って喜ぶんですよ。「この人、大阪弁喋った!」とか、敬礼してみたりして、敬礼され返してくれたら嬉しかったりとか。そのくらい、何もなかったってことなのかもしれません。

ただ、訪問販売をしている避難所があるのをテレビ見まして。私は2000円しか持っていませんでしたから、その避難所にもお金がない人もいるだろうと思ってしまって、そこに避難していなくてよかった、と思いました。他の子どもが買えているのに、自分の子どもが買えないのは、やっぱりつらいでしょうから。

荻上 ということは、あえて少し離れたところに仮設のコンビニを作って、他の人の動きがみえなくなることも大切だったりするんですね。

船砥 そうそう。私が避難したところは、少し離れた場所にありました。でも避難所に直接くるのは、ちょっと気まずいなと思いました。

荻上 お金がある人にとっては近くのほうが便利なんでしょうね。被災者同士で比べてしまうような状況になるのは酷でしょう。他には、どんな方が来ましたか?

石川 テレビで鶴瓶さんが来ました。鶴瓶さんが私の娘に、亡くなった消防団のお父さんのことを聞いてしまって、娘が泣いてしまったことがありました。

荻上 あ、僕、その番組をみました。鶴瓶さんが、本当に申し訳なさそうにされていて。

石川 それです、それです。だけどこの後、仙台に招待していただいて、鶴瓶さんとお話したんです。やっぱりそのエピソードを覚えていらっしゃって。恥ずかしかったなあ……。

一同 (笑)

■窮屈な仮設住宅

荻上 現在、皆さんは仮設住宅に住んでいらっしゃいますが、仮設はどのくらいの大きさなのでしょうか。

吉田 私のところは2DKです。大学生の娘が帰ってくると6人になるので、一部屋に3人で寝ていました。とにかく狭くて。押入れも一軒分しかないので、布団を収納するのが大変でした。

さすがにストレスが溜まったので、12月に、違う場所に3Kの部屋を借りたんです。ですからいまは、主人とおじいちゃんが2DKの仮設住宅、私と息子は別の、3Kの部屋に住んでいます。

船砥 うちは6人家族の3Kなので、やっぱり狭いですね。いまはミサンガの事務所を構えていますが、構えていなかった頃は、人や物の出入りが激しかったので、茶の間に物が置けませんでした。

部屋は4畳、4畳、6畳です。片方の4畳には、2段ベッドを2ついれて、ベッドが子どもたちそれぞれの部屋になっています。ベッドの上に、机がわりの小さいテーブルと本棚、それから高校生の息子はパソコンをおいています。人が通れるぎりぎりのスペースがあるくらいの余裕しかありません。

石川 4畳っていっても、実際の4畳より狭い気がするよね。

船砥 うん、感じる。もう1つの4畳部屋で私が寝ています。その部屋も、押入れからはみ出たものを積んでいるので、布団の左右が荷物の壁になっています。

カビが生えると嫌なので、外から見えないようにカーテンをしたまま、換気のために窓だけ開けています。それでもやっぱりカビが怖いので、3、4か月に1回くらい、子どもたちと私の部屋を入れ替えています。周囲から「引っ越すの?」と聞かれるくらいの大仕事(笑)。

吉田 それ、疲れるよねえ。

4人で2DKにいたとき、どの組み合わせで寝るのか考えなくちゃいけなくて。旦那と息子とじいちゃんは血がつながっているけど、私は他人ですから、やっぱりじいちゃんと私の組み合わせは……と考えちゃいますから。

荻上 気を使いますよね。男性はみられることは気にしない方が多いかもしれませんが、やっぱり女性は気にしますし、男性としても見るのは気まずいじゃないですか。

吉田 最終的に、息子が「父親とじいちゃんは嫌だ」と言って、私と茶の間で寝ました。だからじいちゃんと旦那が一緒に寝ていました(笑)

一同 (笑)

吉田 おじいちゃんは年寄りなので、夜に何回もトイレに行きます。そのたびに目が覚めるので、本を読むんですね。部屋の電気をつけるわけにもいかないので、電気スタンドを買ってあげたんですが、やっぱり隣にいる旦那もまぶしくて目が覚めちゃって。旦那も、だんだんストレスが溜まっていました。

それに私と息子も、お茶の間で寝ているので、夕食後、誰かがテレビを見ていると、なかなか寝る準備ができないんです。だからテレビを見ている人がトイレに行った瞬間に、すかさず布団を敷いて。

一同 (笑)

吉田 別々に住むようになってからは、だいぶ楽になりました。

でもおじいちゃんに食事を作らせるのが申し訳ないんですよね。おじいちゃんはおじいちゃんで、自分の起きたい時間に起きられるし、1人になってゆっくりできるようになったみたいですけど、どっちがよかったのかは悩んでいます。

荻上 やっぱり家族であったり、仲が良かったりしても、1人になれる時間やスペースは欲しいですよね。

吉田 仮設には、トイレくらいしか1人になれる場所がないんですよね。

船砥 あとは、台所が唯一、1人になれる場所。夜中、みんなの部屋をしめて、丸椅子に座って、ようやく一息ついていました。なかなか1人になれません。

■住めば都なのか

石川 その点うちは2人しかいないので楽ですね。

でも娘が6年生になって、自分の部屋を欲しがっていて。ちょっとのスペースしか待ってないから、どうしても無理なんですよね。犬を飼っているので、余計にスペースがないです。

荻上 犬は一軒家で買っていらっしゃったものを仮設住宅に連れてきたんですか?

石川 いえ、仮設で買いました。旦那が消防で亡くなって、娘が寂しいだろうと思って、犬を買ってあげたんです。ただそれがうるさくてねえ……。

一同 (笑)

船砥 あの子、最初は静かだったよねえ。

石川 いまじゃカタッと音がしただけで「あおーん!」、電話が鳴っても「あおーん!」。とにかくうるさくて(笑)。

荻上 娘さんの友達が遊びにくることはありますか。

石川 ありますね。DSで遊んでいます。Wiiも持っているんですけど、あのゲームは大人数で遊ぶことになるので、「せめてDSで遊んで」とお願いしてます。Wii、狭くて振り回せないし。

荻上 震災前のご自宅は、どのくらいの大きさでしたか。

石川 10畳くらいの部屋が3つですね。

荻上 前が広かった分、仮設住宅の狭さからくるストレスは大きいと思います。

石川 娘と2人だからそこまではないと思いますが……。ただ、もしかしたら私の知らないところで娘はかなりストレスを感じているのかもしれないけど。

吉田 私は昔は8人家族でした。このあたりでは親子3代の大家族も珍しくありません。それでも1人1部屋くらいはあったんです。でも、震災で、8部屋から2部屋になったので、なにをやっても見られるのがストレスになっていますね。

船砥 それは確かにつらいね。私は物資を置く場所がないので、あまり貰わないようにしていました。仮設はとにかく狭いですから。

それでも仮設に来てからは、ひとの視線もあまり感じなくなったし、誰にも気兼ねなく食事がとれるようになったので、居心地はとてもいいです。ご飯を食べるときに「いただきます」と言った瞬間、幸せだなあって思いました。

荻上 住めば都、ですか。

吉田 うちのおじいちゃんも「住めば都だ」って言ってました。

石川 じいちゃんいま楽しそうだよ(笑)

一同 (笑)

荻上 震災は、多くの人々を一気に貧しくしてしまいます。住まいの貧困問題も、災後の大きな課題ですし、日常生活の細かなところに、様々なストレスがあるんですね。お忙しい中、今日はほんとうにありがとうございました。

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