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中国書記官スパイ疑惑報道が投げかける秘密保全法案問題

臺宏士

 読売新聞が5月29日付朝刊の1面トップで「中国書記官 スパイ活動か 出頭要請拒否し帰国」との見出しで報じた在日中国大使館の李春光1等書記官(当時)による外国人登録法違反(虚偽申告)事件は、李氏が関与していた農林水産省の対中輸出促進事業に関連する「機密文書」の漏洩にまで問題が広がった。一方で事件を受ける形で、松原仁・国家公安委員長が記者会見でスパイ防止法の重要性に言及するなど、重要な国家情報の漏洩などに厳罰化を図る秘密保全法案の制定をめざす民主党政権にとっては有利な状況が生まれているかのように見える。一部の新聞にもこれを後押しするような論調が見られる。しかし、今回の文書の漏洩がスパイ防止法を必要とするような事態だったのか。秘密保全法案に当てはめるとどんなことが起こりうるのか―など慎重な吟味が必要で、一時の社会的な空気に乗ることは危険であると考える。

 「米仏英独、韓国、中国などの諸外国ではスパイ行為を取り締まるための関係法令が整備されていると承知している。スパイ行為にかかる法制の整備は我が国の国益を守る上で重要な課題と認識している。国民の十分な理解が得られることが望ましく、広く国会等の場で議論されることが必要と思料している」。松原国家公安委員長は、5月31日の記者会見で記者からの「日本にスパイ防止法がなく、スパイ活動がしやすいのではないか」との質問に対してそう述べた。この日は警視庁公安部が既に帰国した李元書記官を外交官の身分を隠して外国人登録証明書を取得したとして外国人登録法違反の疑いで書類送検した。松原氏は、続いて6月1日の閣議後の閣僚懇談会でも「(秘密保全法案の)作業を加速することが急務だ」と発言している。

 警視庁公安部は李元書記官について「経歴や国内での活動状況などから、スパイだった可能性が高い」(6月1日付読売朝刊)としているらしい。しかし、本稿ではスパイ疑惑よりも今回の事件で焦点となった農水省機密文書が秘密保全法案と取材活動にどのような関わりを持つかを読売記事(東京本社最終版)を中心に考察してみたい。

 機密文書が最初に報じられたのは5月30日付朝刊だ。1面トップで「書記官農水機密に接触」とのスクープ記事だ。それによると、筒井信隆・副農水相が主導する農産物の対中輸出促進事業に関連して、事業の中心となっている一般社団法人「農林水産物等中国輸出促進協議会」の顧問が同省の内部文書を入手し、その内容が書記官に漏れたという内容だ。顧問は鹿野道彦・前農水相グループの衆院議員の公設秘書。書記官はこの議員事務所に出入りしていたらしい。記事では「取扱注意」とされた文書は「確認出来ただけで30枚を超えていた」と言及している。記事に主語がないのでわかりにくいが、確認したのは読売記者だ(5月30日付朝刊)。文書を入手したのだろう。

 ところで、秘密保全法案のたたき台となった「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」の報告書(2011年8月)によると、各省の大臣が指定する「特別秘密」は、「国の存立にとって重要な情報」であって、(1)国の安全(防衛)、(2)外交、(3)公共の安全及び秩序の維持に関する情報が対象だ。読売によると、今回漏れたとされる文書は東京電力・福島第一原発事故の影響を受けた国内のコメ価格の見通しなどらしい。

 こうした情報は秘密である可能性はあるが、特別秘密に指定されるのかどうかは現時点では判然としない。コメの先物取引市場や購買行動の混乱は秩序の維持上問題だということになるかもしれない。仮に該当した場合は取材活動にどのような影響があるのだろうか。報告書は、秘密を探ろうとするいわゆる「探知罪」を「特定取得行為」として規制しようとしている。これは、「社会通念上是認できない行為を手段とする」もので、「未遂、共謀も処罰することが適当」と指摘した。取材活動も当然、含まれている。スパイ行為と取材活動は外形上、酷似しており、区別は難しい。このため、読売社説(11年10月8日)は、「『取材の自由』の制約が心配だ」として、取材の自由に関する明文規定を盛り込むことを提案している。

●読売「スパイ」報道と「取材の自由」は矛盾?

 有識者会議は自衛隊法改正で盛り込まれた防衛秘密制度を参考に議論した。05年5月に読売が報じた中国海軍潜水艦が南シナ海で起こした火災事故で、読売記者に情報を提供した防衛省情報本部所属の一等空佐は同法違反(防衛秘密漏洩)の疑いで書類送検された。幸いこの時は、読売記者は捜査対象にはならなかった。しかし、民主党内では秘密に触れる国会議員に対しても守秘義務をかける方向で議論されており、読売社説は大事な点を指摘したが、現時点では取材活動を除外する議論にはなっていない。今回の読売記者の行為も「特定取得行為」に該当する可能性もあるわけだ。

 読売は「中国スパイ問題取材班」名で「今回の事件の教訓を踏まえ、スパイ防止法の導入に向けた議論を検討することが必要だろう」(6月1日付朝刊)と指摘した。この時期は、同じ読売新聞グループの読売巨人軍が、球団代表を解任された清武英利氏の著著『巨魁』をめぐり、発行元のワックなどに対して、内部資料を持ち出されたとして東京地裁に申請していた移転禁止の仮処分が認められ、執行官が保全(5月26日)したことが取材源の秘匿との関係で議論となり始めていた。秘密保全法案で漏洩した秘密文書の返還まで制度化されたら、取材の自由は立ちゆかなくなるだろう。

 1999年に各紙が制定を求めた包括的な個人情報保護法では報道活動への制約につながることが強く認識されていなかったため、新聞界は軌道修正に苦労した。いまはスパイ防止法論議をする時期ではない。(「ジャーナリズム」12年8月号掲載)

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臺 宏士(だい・ひろし)

毎日新聞社会部記者。1966 年埼玉県生まれ。早稲田大学卒。90年毎日新聞社入社。著書に『個人情報保護法の狙い』(緑風出版)ほか。