藤田博司
2012年09月10日
2012年6月15日、大阪地裁で新聞報道による名誉毀損と損害賠償をめぐる裁判の判決が言い渡された。判決は名誉毀損を認め、新聞社に600万円の賠償を命じるものだった。
このニュースは翌日の主要各紙で簡単に伝えられた。一部の地方紙も通信社電でこれを伝えた。しかしいずれの報道も、判決が示した、より重大な事実についてはきちんと指摘していなかった。「論議を呼びそうだ」という形でわずかに問題のありかに言及していたのは毎日新聞(大阪本社版)だけだった。
ほとんどの新聞が記事で伝えなかった「より重大な事実」とは、被告の新聞社が裁判の過程で記者の取材メモを裁判所に提出し、取材先の実名、官職にも触れて取材の過程を克明に明らかにしていたことである。
取材源を安易に明らかにすることはジャーナリズムの基本倫理、基本原則に著しく反する行為と考えられている。その点で被告の新聞社がとった行為は明白にルールを踏みにじっている。にもかかわらず、各紙の報道がこの事実に触れなかったのには、首をかしげざるを得ない。
「論議を呼びそう」と伝えた毎日も、それ以上に踏み込んだ指摘はしなかった。ただ毎日はそれから1カ月以上経った7月21日付紙面のメディア欄であらためて取り上げ、新聞が取材源を裁判所に開示したことを「報道倫理上極めて異例」と厳しく批判した。また東京新聞も7月27日付の特報面でこの問題を詳しく論じ「メディアの自殺行為」と批判していた。
しかしこの2紙以外の新聞はその後もこの件を取り上げてはいない。
●実名出しながら「取材は不十分」で敗訴
地裁判決で敗訴したのは、被告の日本経済新聞社、原告は元枚方市長である。元市長は2007年当時、枚方市の公共工事を巡る談合事件で起訴され、1審、2審で有罪判決を受けて、現在上告している。名誉毀損裁判の対象となったのは、07年7月6日付日経新聞の社会面トップの記事、「市長、頻繁に接待受ける/ほぼ毎月の時期も」との見出しで報じたものだった。
元市長側は「事実無根」だと言い、日経は「十分な取材に基づく」報道と主張していた。被告側が取材メモを提出し、取材源の検察官の身分と実名まで明らかにしたのは、報道された情報が真実、ないしは真実と信じるに足る相当の理由があったことを証明することを意図したものと思われる。
しかし判決はこの日経側の思惑をあっさりと打ち砕いた。被告側の資料は、記者が個別取材をした二人の検事(検事正と次席検事)とのやり取りを、検事の実名とともに一問一答の形で明らかにしていた。しかし小海隆則裁判長は、二人の検事に対する「それぞれ1回ずつの短時間の取材によって得た主観的かつ断片的な情報だけにもとづいて(筆者注・報道が)されたものであるといわざるを得ない」とし、「取材活動が十分であったとは到底認めることができない」と結論づけている。
日経側は二人の検事が信頼できる取材源であることを強調したが、裁判長は検事から得た情報が客観的な裏付けを欠くものとして被告の主張を退けた。日経側は元市長や接待をしたとされる業者が取材に応じなかったことも取材が困難であったことの理由にあげていた。が、裁判長は元市長が行った記者会見の席で日経の記者が接待について質問していなかったことなどを指摘して、取材が不十分であったと断じている。日経にとっては完敗というほかない。
●破られた基本倫理 他社の取材活動に影響も
日経の敗訴はさておき、この判決が明らかにした最大の問題は、新聞社が裁判で自社の記者の取材メモや担当記者の間で交わされた電子メールなど、取材に関わる資料を裁判所に証拠として提出していた事実である。しかもそれによって、取材先の身元だけでなく、取材対象との一問一答を含む取材過程の詳細が明かされていたことである。提出に際して事前に取材先の了解を得た形跡もない。
また判決文から読み取る限り、これが裁判所に強制されて提出されたものとも思われない。むしろ日経側が自社の主張を補強することを意図して自発的に提出したものではなかったかと推測されるのである。
あらためて記すまでもないが、通常のニュース報道では、伝える情報の信頼性を担保するために、できるだけ情報源を記事の中で明示することが記者に求められている。そうすることで、読者に情報の確度を判断する材料を提示し、情報提供者による情報操作を防ぐこともできるからである。
しかしたとえば権力の不正や逸脱など、内部告発者による情報に頼らねばならない報道では、情報提供者の利益や安全を守るために情報源を秘匿することがある。その場合、仮に警察や検察、裁判所から情報源の開示を命じられても、情報源を秘匿するのがジャーナリズムに携わるものの守るべき基本倫理とされている。
日本ではかつて1952年に、公務員の秘密漏洩をめぐって朝日新聞記者が取材源の証言を拒んだため、最高裁まで争って有罪判決(罰金3000円)を受けたケース(石井記者事件)がある。日本の法律は医師や弁護士のように職業上の秘密について証言を拒絶する権利を、記者には認めていない。しかし近年、最高裁の判例も一定の条件つきながら記者の取材源をめぐる証言拒否を許容しており、報道活動における取材源秘匿の意義を認める判断を示している。
米国では、報道の自由を守る観点から取材源秘匿の権利を主張するメディア側と、事件の真相解明などのために情報源を明らかにさせようとする司法の間でしばしば衝突が起きている。2005年には、CIA要員の身元に関する機密漏洩事件をめぐって連邦大陪審での情報源に関する証言を拒否したニューヨーク・タイムズの記者が法廷侮辱罪に問われ、3カ月近く身柄を収監されたことがある。
いったん秘匿を約束した取材源、情報源はたとえ裁判所に命令されても最後まで秘密を守らねばならない。それが報道の仕事に携わるものの義務である。その約束を安易に破れば、記者と取材源の間の信頼関係は崩れ、その後の取材が難しくなる。情報源は自分に不利益や危険が及ぶことを恐れて記者に情報の提供をためらうようになる。そうなれば、権力や企業内部からの告発は減り、究極的には公共の利益に資する報道が弱体化することは避けられない。
今回の名誉毀損裁判で取材源を裁判所に明かしたのは日経新聞社だが、その影響は日経だけにとどまらない。検察や警察だけでなく、日常的にメディアの取材を受ける役所や企業の担当者は、メディアの取材全体に対してこれまでより強い警戒心をもって臨むことになるだろう。
●「関係者」という匿名取材に甘えはないか
裁判所に取材メモなどを提出した際、そのことが引き起こすさまざまな波紋を日経がどのように考えていたのか、論評を控えているのでわからない。もし、何のためらいもなく資料を提出したのだとすれば、報道機関として基本倫理の認識のなさを疑わざるを得ない。取材源の身元や取材過程の詳細を明かして、将来の取材活動への影響を懸念しなかったとすれば、あまりに無神経と言わねばならない。
裁判所に取材資料を提出し取材源を明かすという、報道機関として致命的とも言える過ちに加えて、日経は今回の判決で屈辱的な判断を突きつけられている。自社の立場の弁論に有利と考えて開示したに違いない取材の過程について、詳細に検討した裁判長はそのほとんどの部分について、判断の甘さ、取材の不十分さを指摘した。その上で問題の報道を「真実であると信じるについて被告に相当の理由(真実相当性)があると認めることはできない」と、完膚なきまでに批判したのである。
しかし裁判長のこの批判は、他社の記者にとっても他山の石とすべきものを含んでいる。判決文に引用された日経記者と検察幹部とのやりとりは、他の事件、他の場所でも日常的に記者と当局者の間で繰り返されている取材のありようをそのまま映し出している。それはいま警察や検察に対して行われている取材の結果が、裁判にかかると判断の甘さや取材努力の不十分さを指摘される可能性が多分にあることを意味している。
検察庁を対象とする取材のむずかしさはかねてメディアの側から強調されてきた。それでも記者は独自に入手した材料を基に検察当局の重い口を開かせる取材努力を続けていると説明してきた。しかしその努力が今回の裁判で明かされたような取材と同程度のものであるとすれば、メディアの側に安心できる理由はどこにもない。
判決はまた、匿名を前提とする検察や警察取材のありようにも反省と検証を迫っている。前述のようにメディアはニュースの信頼性を担保するために、できるだけ取材源を記事のなかで明示するよう記者に求めている。今回の取材源もむしろ明示して報道されるべき性格のものだった。しかし検察・警察報道の多くがそうであるように、この記事の場合も「関係者」という匿名で伝えられていた。
日経は、読者に対して本来なら明示すべき取材源を報道記事では伏せながら、他方で裁判所に対して秘匿すべき取材源を自ら開示するという、ジャーナリズム本来のありように逆行する過ちを犯したのである。取材源を司法当局に明かすという振る舞いは例外的だとしても、読者に対する情報源明示の原則は他のメディアでも厳密に守られているというには程遠い。読者に対する責任を軽視するメディアにとって、日経の事例に表れたような匿名取材は決して他人事ではないはずである。
●他社の反応の鈍さはメディア劣化の象徴
今回の報道でもう一つ「重大な問題」として指摘しておかねばならないのは、取材資料の法廷提出と取材源の開示という問題に対するメディアの反応の鈍さである。はじめに触れたように、裁判の結果は翌日の新聞でごく大まかに伝えられた。が、日経が裁判で取材源を開示していたというニュースの核心になる部分をはっきり指摘したのは、毎日大阪本社版の記事だけだった。1カ月以上たっても、この問題をあらためて詳しく論じたのは毎日と東京だけだった。
ほとんどの新聞が判決の直後に取材源の開示を問題として取り上げなかったのは、記者が判決文を読まなかった怠慢のせいか、読んでも問題の所在に気づかなかった問題意識の欠如によるものだろう。しかしその後も前記の2紙以外にこれを問題視するメディアがないのは、メディアがこの問題にまったく無関心か、それとも何らかの理由で意図的に無視しているとしか思えない。いずれにしても、報道機関として、ジャーナリズムの倫理、使命の根幹に関わる問題に目をつむり続けていることは、理解に苦しむ。
日経は判決のあと、直ちに控訴している。どのような判断に基づくものか、取材資料を提出し取材源を明かしたことについて現段階でどう考えているのか、二つの有力紙から問題提起があった以上、当事者としての見解を示すなり説明をするのが報道機関としての責任だろう。
これまでこの問題で何らの意見も表明していない他のメディア各社も、それぞれの立場を明らかにすべきだろう。このまま沈黙を守り続ければ、いずれ不作為の責任を問われることになるかもしれない。取材源、情報源の秘匿にどう対処するか、報道機関としては常に念頭に置いておかねばならない問題であり、それから目をそらすことは、報道の責任を放棄することと見なされても仕方がない。
この裁判と、裁判をめぐるその後のメディアの報道(あるいは報道の欠如)を振り返ってみると、これが日本のメディアの劣化を象徴しているのではないかという懸念が浮かんでくる。取材メモをいとも安直に(と思われる)法廷に提出した日経の、ジャーナリズムの倫理にもとる行為、それを問題として最初の報道で指摘できなかったほとんどの新聞、その後、1カ月余りたっても日経の行為を問題視する新聞がわずか2紙にとどまっている鈍感と無関心。これらの事実はジャーナリズムを担うべきメディアの驚くべき質の劣化を意味している、と見るのは厳しすぎるだろうか。
いまメディアはこれまでになく読者や視聴者から不信の目を向けられている。一連の原発事故報道しかり、普天間基地やオスプレイ問題などの沖縄報道しかり、脱原発を呼び掛ける市民のデモ報道しかり。伝えるべきニュースを伝えていない、メディアとして果たすべき役割を果たしていない、という不満と不信である。
このままではやがてメディアの機能不全に陥ることになりかねない。それはこの社会を支える民主主義の土台をむしばむ事態にもつながるだろう。今回の裁判が明らかにした日経による取材源開示の事実とその後のメディアの対応は、メディアがそうした危険水域に差し掛かっていることを示す深刻な兆候と言うことができる。(「ジャーナリズム」12年9月号掲載)
◇
藤田博司(ふじた・ひろし)
ジャーナリスト。1937年香川県生まれ。東京外国語大学卒。61年共同通信社入社。サイゴン特派員、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長、論説副委員長などを歴任。95~2005年上智大学文学部新聞学科教授、05~08年早稲田大学教育・総合科学学術院客員教授。06年から朝日新聞社「報道と人権委員会」委員。
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