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ここまで来た書籍のデジタル化 今こそ欲しい「紙の本」への想像力

福嶋聡

 「電子元年」=2010年以来「今か、今か」と噂され続けてきたキンドルの日本上陸に先駆けて、7月19日、楽天が電子書籍端末「コボ・タッチ」の販売を開始した。それに先立つ4月2日には「株式会社出版デジタル機構」が設立され、本格的な電子コンテンツの流通と市場創出をめざす。09年に全世界が揺れたグーグルの書籍デジタル化計画も、その後、英語圏に限定されている。日本側の守備陣形がようやく整ってきた……か。

 否、逆に「敵」を引き寄せてしまうのではないかと、懼れる。 グーグルやアマゾンが「侵攻」の速度を緩めたのは、こと日本に関する限り、「面倒くさいから」ではないか、というのがぼくの見立てだからである。

 1万種を超える漢字、ひらがな、カタカナ、と3種の文字を混ぜ合わせて使い、外字も多い。苦労して書籍をデジタル化しても、書籍販売の総計が年間8千億円の小さな市場だ。しかも、英語と違って日本以外ではほとんど売れない。

 一方で、日本には出版社も書店も多く、それぞれに口うるさい。「面倒くさい」だけで元は取れないと思っても不思議はない。

 そんな中、日本側が自ら出版物のデジタル化を推進するとなれば、それは彼らにとってまさに「渡りに船」と言えないか?出版デジタル機構は、どの電子書店と販売契約をするかは各出版社の判断であり、すべての販売店に対して窓口を開く、と明言しているからだ。日本側は、「面倒くささ」という最大の防潮堤を、自ら切り崩そうとしているのだ。

 「アマゾンは国内出版業界の慣習を打ち崩せず、それが参入時期を遅らせる要因になっていた。楽天が国内出版業界の目を覚まさせたのであれば、それは世界最大のアマゾンを利することにもなる」と日本経済新聞(8月5日付朝刊)も書く。

 もっともそれが愚策であるのは、あくまでグーグルやアマゾン等を「外敵」と見なした場合である。

 確かに日本の書店にとって、アマゾンは、この10年余、日本の書籍販売市場にどんどん侵攻し続けた「侵入者」である。だが、出版社からみれば、その間、アマゾンに販売してもらう出版物の総量は増え続けた。

 電子書籍についてもこの非対称性は同様であり、出版社にとっては自社の電子書籍を販売してくれれば彼らはパートナーであるが、書店が彼らを仲間と見なせる可能性は、まずない。

 つまり、「黒船」来航を前にして、出版―書店業界は一枚岩ではないのだ。もし出版社―書店の紐帯の強さをこれまで通りに保ちたいならば、双方が電子書籍に対する「紙の本」の優位を認識し、自覚的に訴えていくことによってでしかない。

●電子書籍と原発 この不思議な関係性

 脳科学者の酒井邦嘉は、『脳を創る読書 なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』(実業之日本社)で、「紙の本」と電子書籍を比較して言う。

 電子書籍では、本の厚みなどが与える量的な手がかりが希薄で、紙の本のように、視覚的・触覚的に常に全体のどのあたりを読んでいるかを把握しながら読むことができない。一方、紙の本では、1行開けるとか、章立てによるページ替えというようなレイアウト、更には右ページと左ページの区別にも情報があり、脳は紙の汚れや印刷むらなどにも注意を向ける。そうした視覚的な印象や手がかりは、本を読む際に思いのほか大切だ。だからこそ、電子画面上では見逃した誤字脱字を、プリントアウトした紙の上で発見する、ということが頻繁に起こるのだ。

 また、「紙の本」は、視覚だけでなく、嗅覚や触覚も刺激する。

 すなわち、本が「モノ」であること、紙の上にしっかりとテクストが定着していること、その存在感が、神経を集中してその本に向き合い、その本の世界に入り、「脳を創る」に当たって、大切な要素なのである。

 だが、現にアメリカでは、電子書籍のシェアがどんどん増加して「紙の本」にリプレイスして行き、全米第2位の書店チェーンであるボーダーズさえ姿を消したではないか、という予想される反論に対しては、次のように言おう。

 もう、いい加減、アメリカの後追いをするのはやめたらどうだろうか?

 長らく、日本は10年遅れてアメリカの後を追ってきたが、「9・11」やリーマン・ショックを経た今、財政赤字や格差、泥沼の軍事外交など、アメリカを範とする理由はどんどん失われてきているのではないか。

 『原発危機と東大話法』『幻影からの脱出』(共に明石書店)の著者安冨歩は、唯一の被爆国である日本が、戦後世界有数の原子力発電国となったのは、原発推進政策が、アメリカとの関係や安全保障の面で都合がよかったからだと言う。日本の原発政策の背後にそもそも日本に原爆を落としたアメリカの強い意向があったことは、広く知られている。

 その上で安冨は、「原子力発電所は、日本みたいに資源のない国では必要」という「原子力ムラ」の「東大話法」を、日本が最も誇るべき豊富なエントロピー処理資源を無視し、日本のブランドイメージを何よりも破壊する欺瞞だ、と批判する。

 日本のエントロピー処理資源とは、山の多い地形、雨の多い気候、そして豊富な森林資源である。電子書籍に不可欠なのは、電力である。そして「紙の本」に不可欠なのは、木材である。こうして、平仄(ひょうそく)は合う。

 経済産業省の肝煎りで設立され、出版物のデジタル化を推進する事業によって結果的にアメリカ資本を引き寄せてしまうかもしれぬ出版デジタル機構に、官民ファンドの産業革新機構から150億円の出資が即座になされたこともまた、アメリカの意向に極めて敏感な日本の官僚機構を思えば、見事に平仄が合ってしまうのである。(「ジャーナリズム」12年9月号掲載)

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福嶋 聡(ふくしま・あきら)

ジュンク堂書店難波店店長。1959年兵庫県生まれ。京都大学卒業。82年、ジュンク堂書店入社。仙台店長、大阪本店店長などを経て09年7月から現職。著書に『劇場としての書店』(新評論)など。