澁谷知美
2013年01月22日
おかやま山陽高野球部といい、桜宮高バスケ部といい、報道される体罰は氷山の一角にすぎない。体育大学と一般大学の学生を対象とした2006年の調査では、回答者の約39%が中学の運動部活動で、約44%が高校での運動部活動で体罰を受けた経験ありとしている。
「高校の時に、顧問に頭突き、蹴り、首絞めとかたくさんありました」、「高校の時、部活中、往復ビンタは当たり前だった。モモを蹴られて立てなくなった。ボールを顔に当てられた子もいた。こういう体罰が重荷だった」、「中学1年の時、男子の部活の生徒がイスを投げられていた。部活で男女ともミニホワイトボードで頭をたたかれていた」、「部活の試合中に女子生徒の髪の毛を引っ張ってコートの外に出していた」などの事例が経験者から寄せられている(注2)。
子どもの健全育成をするべきスポーツ教育の現場で、体罰つまり暴力がまかり通るのはなぜか? この記事ではそれを考えてみたい。答えをあらかじめ述べるならば、体罰に歯止めをかけるシステムが教育の現場で作動しないこと、そして、部活動ひいてはスポーツに特有の勝利至上主義が暴力をまねきよせること、が背景にあるためと考える。スポーツ教育の現場“なのに”なぜ……と考えるのは誤りで、スポーツ教育の現場“だからこそ”暴力が発生する条件がそろっていると指摘したい。そして、昨年の大津「いじめ」事件にかんする記事(注3)でも述べたように、暴力をふるったら裁かれるという一般社会では当たり前のルールを学校にも適用することを提案したい。
まず1点目の体罰に歯止めをかけるシステムが教育の現場で作動しない、とはどういうことか。教育社会学者の広田照幸は、青少年にたいする「教育」や「ケア」のまなざしの拡大に歯止めをかける論理が、教育やケアのシステム内に存在しないことを指摘している。それゆえ、「教育の失敗」が生じると、これにたいして大人は「よりよい教育」を対置する。青少年にたいする監視をもっと強めるという方向にゆくのである。そして、その「もっと」には限りがない。青少年の身体や行為を日常的に監視するシステムの緻密化・濃密化をとめどなく進行させてしまいかねない(注4)。
広田の指摘は今回の事件によく当てはまる。桜宮高の男性教諭は、10年前から生徒に体罰を加えつづけていたという(注5)。男性教諭の暴力に歯止めをかけるシステムが10年ものあいだ作動しなかったことを示している。じじつ、大阪市の公益通報制度を利用して、顧問の体罰を通報した人が2011年にいたが、顧問らに聞き取りしただけで、「体罰はなかった」と判断された。システムは存在しても機能しなかったのである。
また、男性教諭が「たたくことでよい方向に向く生徒もいた」と語っていたことにも注目したい(注6)。すくなくとも男性教諭の自己認識では、10年間、「よりよい教育」をしつづけていたのに過ぎず、むしろ生徒を成長させてあげたということになっているのである。彼の認識や行動にたいして、「それは間違っている」と異議をさしはさむ人がいなかったか、いても意味をもたなかったことが推察される。
2点目の、部活動ひいてはスポーツに特有の勝利至上主義が暴力をまねきよせた、とはどういうことか。元プロ野球選手の立場から正面きって体罰に反対し、多くの共感を呼んだ桑田真澄へのインタビューでは、勝利にこだわる指導者の気持ちが体罰をまねきよせる可能性が示唆されている。「日本のスポーツ指導者は、指導に情熱を傾けすぎた結果、体罰に及ぶ場合が多いように感じます。私も小学生から勝負の世界を経験してきましたし、今も中学生に野球を教えていますから、勝利にこだわる気持ちは分かります。しかし、アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました」(注7)。
勝利至上主義と体罰との関係は、桑田の個人的な実感にとどまるものではない。統計的にも確認されている。先述の論文では、
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