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テレビに原点回帰を求めるマツコと是枝

水島宏明

水島宏明 ジャーナリスト、上智大学文学部新聞学科教授

 テレビはかつて「びっくり箱」だった。そこから新しいものに触れることができた。驚きがあった。興奮があった。時代の先端があった。スイッチをつければ見知らぬ世界に連れて行ってくれた。

 テレビ放送60周年でNHKを中心に記念番組が目白押しだ。NHKでは歴史的な名番組を見せた後で「これからもテレビは面白くてワクワクする存在であり続けます」とアナウンサーが大真面目に宣言している。そんな宣言にかえって鼻白んでしまうのは私だけではあるまい。60年分のテレビ番組を振り返る企画は確かに面白い。言葉を使わず即興のジェスチャーで表現したい文章を周囲に伝える初期のバラエティー番組。風呂屋の老婆が「ジュリー!」と身をよじらせるナンセンスなシーンが売りのドラマ。同時代で見ていたかつての自分を思い出しながら「テレビの今」に思いをはせている。

 果たして、テレビはかつてより「面白く」なったのか。より「ワクワクする」存在になっているのか。

 現在、多くのバラエティー番組に登場する超売れっ子タレントの一人にマツコ・デラックスがいる。マツコが売れている最大の理由は「見ている側が言ってほしいと感じている本質を的確な言葉で表現してくれるから」だということに異論のある人は少ないだろう。女装の巨体だからこそ笑って許されるキツい毒舌トーク。数ヶ月前に雑誌取材でインタビューする機会に恵まれたが、その時に強く印象に残ったのが、彼が今のテレビに対する強烈な違和感を持っていることだった。

 「たとえば出演者2人だけでトークした方が互いの人間というか肌合いみたいなものが映し出されて深さが出るのにそんなものを削り取って大勢のトークに差し替えてしまう。瞬間的な面白さを追求して深い面白みはなくなってしまう」。

 マツコの感覚を私なりに解釈するなら、テレビ番組は「作り込まれ」「無駄のない」ものになった。視聴率グラフに表れる刹那的な面白さを「絶えず計算する」ものになったということではないか。

 テレビ60周年記念番組で放送されるかつての名番組を見てみると、「間」の面白さに思わず引き込まれてしまう。「8時だヨ!全員集合」「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ」「オレたちひょうきん族」などをがそうだ。笑える芸やジョークそのものだけでなく、途中の表情やテンポの可笑しさが存在する。

 マツコはこうも言っていた。「今のテレビはお行儀良くなりすぎ。これやっちゃダメこれやっちゃダメとか制限が多過ぎる。本当はもっと世間から怒られるようなことやっていかないないとテレビは面白くならない」。確かにかつて「全員集合」も「ひょうきん族」も俗悪番組の代名詞でもあった。どうせテレビなんだから面白くやろうよ、という奔放さに満ちていた。ところが今やテレビは「ご立派なもの」になった。いつもとは言わないがコンプライアンスという言葉の徹底で、表面上は世間や有力政治家から怒られない存在であろうと最新の注意を払っている。番組の中身も「ご立派」になったが、放送する放送局そのものも「ご立派」になった。

 「ご立派」になりすぎて保身の輩が増えて、計算が先走り、新鮮な表現はなくなった。どこか予定調和の「お約束」ばかり多いメディアになった。 数々のバラエティー番組に出演している超売れっ子のマツコでさえ、そんなフラストレーションを抱えている。猥雑さ。下品さ。突抜け感。チャレンジ精神。そんなものがテレビから消えてしまったと。

 同じことはニュースを中心にした報道でも言える。確かにテレビ報道は次々に限界を突き破って進んでいる。皇太子ご成婚パレードの生中継。東京オリンピック開会式。人類の月面着陸。あさま山荘での攻防。天安門事件。ベルリンの壁崩壊。湾岸戦争。そして、大津波。原発の爆発。人間同士の究極の殺し合いである戦争も含めて、映像放送や生中継できないものはないというほど何でも瞬時に送り出すテレビ。かつてカメラが簡単には撮影できなかった場所の映像も送ることができるようになった。

 砂漠に囲まれたアルジェリアの石油プラントで起きた日本人らの人質事件でも、そろそろ映像が出てくるか、と思っていたらニュースに事件当時の映像が登場した。ボーイング787機の緊急着陸のニュースがあったと思うと続報で機内や脱出直後の乗客や乗員の映像が流される。視聴者は「あっ、見てみたい」と一瞬目を留める。そして一度見るとすぐさま見飽きてしまう。かつてのように関心は長く続かない。取材する記者の側も地上波ニュース番組だ、CS用の配信用のニュースもとすっかり余裕がなくなってしまった。

 あわせて「立派な会社」としてのコンプライアンス。もちろん、そうしたルールを必要とする場合が多いにしてもマニュアル主義が闊歩する。結果として、一昨年の福島第一原発事故の直後のように、大勢の住民がまだ残っているのに記者たちが原発近隣地区から撤退してしまいロクに現場を取材していない、などという事態が生じる。これでは本末転倒だが、「ご立派」なテレビはいざという時に住民のために報道する使命を忘れてしまっても恥じることがない。

 もう一人、テレビの現状に怒るテレビ人で印象に残っているのが、是枝裕和だ。映画監督として有名だが、テレビドキュメンタリーを皮切りに映像表現の世界に入ったためテレビディレクターとしての自意識は今でも強い。ある時、是枝とこんな話をしたことがある。ドラマやドキュメンタリーの音声についてだ。多くのテレビ作品では、ミキシングという音声の仕上げ段階になると、シーンごとの音声を「丸める」作業をする。1つのシーンが終わり、別のシーンに移る際、細かく音をチェックしていると、シーンの変わり目に向かって音声がフェイドアウトされているものが多い。これは一般の視聴者からすれば違和感が少なく、耳障りがしない。シーンがひと区切りつき、音もオフになって気持ちよく次のシーンへ向かえる。

 だが、是枝はこれはおかしいと憤っていた。実社会にあふれる音にフェイドアウトなどはない。音同士がぶつかりあって違和感を残すものがあっても良いではないか。かえって耳障りのないフェイドアウトは

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筆者

水島宏明

水島宏明(みずしま・ひろあき) ジャーナリスト、上智大学文学部新聞学科教授

1957年生まれ。札幌テレビ、日本テレビでテレビ報道に携わり、ロンドン、ベルリン特派員、「NNNドキュメント」ディレクター、「ズームイン!」解説キャスター等の後、法政大学社会学部教授を経て16 年4 月から現職。主な番組に「ネットカフェ難民」など。主な著書に『内側から見たテレビ』など。「ヤフーニュース・個人」で報道に関する記事を発信中。

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