大久保真紀(おおくぼ・まき) 朝日新聞編集委員(社会担当)
1963年生まれ。盛岡、静岡支局、東京本社社会部などを経て現職。著書に『買われる子どもたち』、『こどもの権利を買わないで――プンとミーチャのものがたり』、『明日がある――虐待を受けた子どもたち』、『ああ わが祖国よ――国を訴えた中国残留日本人孤児たち』、『中国残留日本人』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
大久保真紀
その日は大雨に見舞われ、車も進むのが大変なぐらい道がぬかるんでいました。農地や牛舎の間を縫うように進むと、4畳半と6畳の2間の小さな家がぽつんと建っていました。それが、出所後に原口さんが一人暮らしをしている大崎町の自宅です。
足腰が弱っている原口さんは小さな椅子に腰掛け、こたつに足を入れていました。壁には、12月のカレンダーがはってありました。それを見た原口さんは「本当にそうやなあ」とつぶやきました。視線の先には、カレンダーに書かれた標語がこうありました。「始める事よりやり遂げる事が難しい」
大崎事件で34年間、無実を訴え続けてきてもなお、まだその願いがかなわない、原口さんの心からの思いだと感じました。老いが忍び寄る中、いつまで闘わなくてはいけないのか、いつになったら元「殺人犯」ではなくなるのか、原口さんは長い、長い自分の闘いを思ったのでしょう。
大崎事件というのは、1979年10月15日、鹿児島県大崎町の自宅牛小屋の堆肥の中から男性の変死体が見つかった事件です。その男性は原口さんの夫(当時)の3番目の弟(当時42)でした。警察は、原口さんの夫、夫のすぐ下の弟、その弟の長男を
殺人と死体遺棄容疑で逮捕、同30日には原口さんを主犯格として逮捕します。身に覚えのない原口さんは「やっちょらん」と繰り返し、言ったそうです。ですが、警察は聞く耳をもってくれませんでした。逆に「白状しないと無期懲役だ」などと責められたそうです。その厳しさに原口さんは死にたい、とさえ思ったそうです。ですが、このまま死んでしまえば罪人のままで死ぬことになる、それだけはできない、と思い直し、否認を続けました。
警察は被害者はタオルで絞め殺されたとしましたが、絞殺の凶器とされたタオルは特定されませんでした。物証はなく、証拠は、共犯とされた原口さんの夫ら3人の「自白」でしたが、一審の鹿児島地裁は、原口さんに懲役10年、夫に8年、義弟に7年、おいに1年の判決を言い渡します。
共犯とされた3人は控訴せずに刑が確定しましたが、その後、弁護士などに警察の厳しい取り調べで「自白」させられたことを告白します。夫は交通事故の後遺症で知的能力が低く、ほかの2人には知的障害がありました。原口さんは無実を訴えて最高裁まで争いましたが、棄却され、81年に刑が確定しました。
一回も「自白」しないまま、原口さんは刑に服します。佐賀県の刑務所では刑務官から仮釈放を勧められました。まじめに刑務所内で生活をしていたからです。ですが、仮釈放を認めてもらうには、罪を認め、反省の情を示さなくてはなりません。原口さんにはそれはできませんでした。「やっていないことを認めるわけにはいかない」。3度もあった仮釈放の勧めをすべて断り、判決通り10年の刑を勤め上げました。
その間に、父親が亡くなり、そして、原口さんの無実を信じ、原口さんにとっては心の支えだった母親も、亡くなってしまいます。
出所後、夫に会いに行くと、夫は「警察に『アヤ子がやったと言え』と言われて、そう言った」と謝りました。ならば一緒に再審を請求しようと持ちかけますが、夫は「オレもやっていないが、もう裁判はいい。忘れたい」と言いました。原口さんは離婚を決意するのです。
母親が出所後に一緒に住もうと用意してくれていた今の家で、原口さんはひとり、生活を始めます。ですが、元「殺人犯」に対する世間の目は厳しいものでした。老人会には入れるわけなく、ゲートボールや花見などの行事にも参加できませんでした。親類の葬式や結婚式も辞退するしかありませんでした。
自ら再審を求める署名とカンパを集めましたが、「警察のやることにまちがいない」と怒鳴られたり、「無駄なことはやめろ」とつばをはきかけられたりしたこともありました。
服役後の95年、原口さんは、遺体にはタオルによる絞殺では起こらない首の損傷があったなどとする鑑定補充書と共犯とされた義弟らが「(調書は)うそ」「自分もやっていない」などと話した録音テープを新証拠として提出、再審を請求しました。
鹿児島地裁は02年3月、再審開始の決定を出します。新たに出された医学鑑定結果がタオルで首を絞めたとする殺害状況と矛盾する可能性が高いと判断したほか、共犯とされた3人は知的能力が低く、捜査官からの強制や誘導に迎合した可能性が否定できず、自白の信用性に疑問があるとしたのです。
しかし、検察側が即時抗告。福岡高裁宮崎支部は、新鑑定は首を絞めたという確定判決の事実認定に疑いを抱かせるものとは言えず、共犯とされた3人は控訴せずに罪を認めており、3人の自白は整合性があるなどとして、04年12月に決定を取り消しました。06年には最高裁で特別抗告も棄却されてしまいます。
共犯とされた3人は1~8年の刑を受けた後、義弟は87年に自殺、元夫は93年に病死。おいも、服役したことを苦にノイローゼになり、01年に首をつって亡くなりました。
「みんないなくなってさびしいわ」。原口さんはそう言います。事件に巻き込まれなければ、離婚することもなく、子どもた
ちが孫を連れて帰省し、親類も交えてにぎやかな正月を迎える日々だったに違いありません。原口さんだけでなく、原口さんの子どももまた、肩身の狭い思いをしてきました。県外に暮らす長女は「子どもたちがいなければ、夫とは別れていた」と吐露します。夫はいまでは原口さんの再審請求を支援してくれていますが、当初はやはり厳しいものがありました。周囲の目を気にして、子どもや孫が大崎町に原口さんを訪ねることはほとんどありませんでした。
服役後の原口さんは、無実の罪を晴らすためだけに日々を重ねてきたといっても過言ではありません。いまも「無実の罪を晴らしてから死にたい」と繰り返し言います。この年齢になってしまったら、やり直しの人生は原口さんにはないのです。ただ、ただ彼女は「やっていないことはやっていない、と認めてほしい」だけなのです。
原口さんは以前は、隣町まで1日約4千円のピーマンちぎりの仕事に通っていましたが、いまは身体がきつくなり、月約5万円の年金と娘たちからの援助で、何とか暮らしています。
地域社会の原口さんを見る目が少し変わったのは、07年に志布志事件で無罪判決が出てからです。志布志事件は選挙違反事件で13人が罪を問われたものの、全員が無罪になった事件ですが、この事件を担当したのは、大崎事件を捜査したのと同じ志布志署でした。「警察のすることに間違いはない」といった空気から、志布志事件で、警察の厳しい取り調べでうその自白を強要されたということが明らかになり、「原口さんの言っていることも本当かもしれない」という雰囲気が生まれてきたそうです。
原口さんは「(志布志事件で無罪が証明された人たちが)うらやましい。私もあの人たちのように早くなりたい」と言います。「だが、私はひとりだから、なかなかたいへんですわ」とも言うのです。
原口さんが第2次再審請求をしたのは10年8月です。タオルで首を絞めた跡が遺体には見当たらないとする法医学者の鑑定や、共犯とされた夫らの供述を分析した心理学者の鑑定、おいを診察した精神科医の意見書などを新証拠として提出しました。
いま、第2次再審では証拠開示が焦点になっています。鹿児島地裁は、地検が作った未開示証拠リストの開示を求めるつもりはないとしています。第2次再審を審査している裁判長は、富山県の氷見事件で、結果的に無実だった人に有罪判決を言い渡した裁判官だそうです。そうしたこともあり、証拠開示を求める弁護団は開示を命じずに裁判所が早期の判断を下すのではないかと、警戒感を強めています。
弁護団の鴨志田祐美事務局長は「最近の再審は、裁判所が証拠開示を勧告するケースが多い。鹿児島地裁は証拠も出させずに判断をしていいのか。裁判所によって救済に格差が生じるのは問題だ」と話しています。
弁護団は、今年に入って、かつて裁判官だった木谷明さん、足利事件の佐藤博史弁護士も加わり、総勢35人になりました。
ここ1年、原口さんの衰えは進んでいます。物忘れも多くなり、足腰も弱ってきています。自ら台所に立つのも難しくなっていて、食事は福祉サービスの1日1回の弁当が頼りです。ふろも、週2回老人施設のデイサービスで入れてもらっています。
原口さんの闘いには、老いとの闘いも新たに加わりました。
弁護団が「鉄の女」と評するほど強かった原口さんが私がうかがったときには「身体が言うことをきかなくなってきた。みんなに迷惑かけるから、死んだ方がましかも」と弱気を見せました。ですが、その一方で、「でも、やっぱりこのままでは死ねない。無実の罪を晴らして、『殺人犯』(というレッテル)をとりたい」と言い直すのです。
原口さんは裁判所にボールを投げ続けています。裁判所は少なくとも、検察側がまだ出していない証拠を提出させる指揮をとるべきです。公になっていない証拠は再審に必要な「新証拠」になります。それをもって再審を認めるかどうかの判断をすればいいのではないでしょうか。権力側が自分たちに都合のいい証拠だけを提出して、知らん顔をしていることは許されません。
原口さんは全人生をかけて闘っています。その彼女に裁判官はどう答えるのでしょうか。「裁判官も自分の人生をかけて判断してほしい。司法が問われている」。鴨志田弁護士は、そう繰り返し、発言しています。
34年。原口さんの闘い続けてきた、その長さをあなたは想像できますか?