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[5]我喜屋マジック

中村計 ノンフィクションライター

 ガキヤ。

 その響きを初めて耳にしたときの違和感を、ひんやりとした風とともに、今でもはっきりと記憶している。夏とはいえ、北海道の朝は肌寒く、上着を持ってこなかったことを小さく後悔していた。

 2007年7月17日。沖縄大会決勝の最初の試合の翌日だった。

 私は札幌市内の北海学園大の野球場にいた。札幌市円山球場で開催されている南北海道大会を戦っている駒大苫小牧がそこで練習することになっていたからだ。

 駒大苫小牧は、2004年から3年連続で夏の甲子園の決勝戦まで進み、04年、05年と連覇を達成。2006年は再試合の末、斎藤佑樹(北海道日本ハム)を擁する早実に敗れたものの、準優勝を収めていた。北海道民はこの快挙を限りなく3連覇に近い連覇という意味で「2・9連覇」と讃えた。

 駒大苫小牧が全国制覇を遂げるまで、東北勢が活躍するたびに「悲願の白河越え」というフレーズが使われた。それまで白河の関がある福島県から北には一度も優勝旗が渡ったことがなかったからだ。それを考えると、東北を一気に飛び越え、しかも二度までも優勝旗が津軽海峡を渡ったという事実は、高校球界はもとより、日本球界にとっても一大事件だった。

 駒大苫小牧は前年に田中将大(東北楽天ゴールデンイーグルス)という絶対的なエースが引退し、戦力的には大きくダウンしていた。それでも世間は、まだ余熱を引きずっていた。この夏の駒大苫小牧はどうなのか、と。

 朝9時前にグラウンドを訪れると、当時の監督、香田誉士史が顔を合わせるなり言った。

 「ガキヤさん、すごい試合してるでしょ?」

 それに対し、私はまったく反応できずにいた。香田は、そんな私を見て、不思議そうな顔をしている。

 「ん? 知らない? ガキヤさん」

 そう言われ、ようやくガキヤというのが人の名前を指しているのだとわかった。

 沖縄以外の地で、そうお目にかかる苗字ではない。今でこそ呼び慣れたからなんとも思わないが、最初は、そのゴツゴツした響きになかなか馴染めなかったものだ。

 前日、我喜屋率いる興南は、沖縄大会の決勝を戦っていた。結果は、優勝候補の浦添商と延長11回を戦い、1-1のまま雷雨でコールドゲーム。その日は休みで、翌日、再試合を行うことになっていた。

 香田はその話題をふってきたのだ。

 2007年の沖縄は、中部商と浦添商が2強、それに続くチームはどこもどんぐりの背比べだと言われていた。

 興南も例外ではない。浦添商の前監督、神谷嘉宗は話す。

 「興南は、いつもベスト8、ベスト4ぐらいまでは行く。でも、失礼な言い方だけど、どこかでこけるんだよね。うん、『こける』という印象がありましたね」

 興南は、前年秋は2回戦で浦添商に0-11でコールド負け。春は8強どまり。優勝候補と呼ぶには、やはり頼りなかった。

 参考までに、ベースボール・マガジン社が発行している『甲子園2007 全国49地区総展望』における沖縄大会の展望記事を読むと、有力校から順に簡単な紹介がされ、興南の名前が出てくるのは最後の最後、14校目だった。この年の参加校は64校だったので、A、B、Cの3クラスに分けたとしたら、ぎりぎりAクラスといったところか。

 同記事は興南についてこんな風に書いている。

〈68年に沖縄勢初の4強入りを果たした興南は当時主将の我喜屋氏が監督に就任。旋風を再現できるか〉

 OBでもある我喜屋は1966年、高校3年生のときに夏の甲子園に出場し、記事にあるように、沖縄県勢として初めてベスト4入りを果たしている。後述するが、これが今なお県民が涙ぐみながら語る「興南旋風」である。

 それにしても、読み方によっては、すっかり「過去」のチームではないか。もし、我喜屋が監督になっていなかったら、まったく触れられなかった可能性さえある。

 2007年夏、興南はその程度にしか見られていなかった。

 興南が開校したのは、東京五輪が開催される2年前、1962年のことだ。同時に野球部も創部した。

 終戦から17年――。引き続き米軍占領下にあった沖縄は「蚊帳の外」だったが、日本は1954年12月から19年間続いた高度経済成長期のど真ん中にあった。4年前に東京タワーが完成し、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」ともてはやされ、世界から「東洋の奇跡」と称された。

 沖縄は、先の戦争で国内最大の地上戦が行われ、多くの人材を失った。それに加え、そんな「内地」の経済の流れに乗り遅れていたからだろう、校名に「南を興す」という願いを込めた。

 校舎は那覇市の北部、古島に建てられた。周囲は見渡す限りサトウキビ畑だった。現在は住宅地が密集し、徒歩2、3分のところには「ゆいレール」と呼ばれるモノレールの駅、古島駅もできた。ゆいレールに乗れば、那覇空港までは20分ほどだ。また、古島駅の反対方向に歩けば約10分で那覇新都心にたどりつく。

 那覇新都心とは、1987年にアメリカから返還された米軍住宅地の跡地に広がる再開発地区のこと。大型ショッピングセンターや総合運動公園、さらには企業ビルや行政施設などが集中し、日本のいたるところで見られる地方都市の風景と何ら変わりない。新都心周辺のホテルと興南を往復する日々を何度も繰り返したが、それだけだと沖縄にきていることを忘れてしまいそうになる。

 興南の練習グラウンドは、今も昔も校舎の前にある校庭だ。校庭は、右半分が異常に長いホームベースのような形をしている。そのためライトは95メートル、センターは120メートルと十分な奥行きがあるが、レフトは80メートルほどしかない。

 校庭の校舎側、外野後方には、一段の高さが40センチほどの石段が16段ある。我喜屋はそこからよく練習風景を眺めている。

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筆者

中村計

中村計(なかむら・けい) ノンフィクションライター

1973年生まれ。千葉県出身。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。『甲子園が割れた日―松井5連続敬遠の真実―』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかの著書に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)、『横浜vsPL学園――松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)など。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです