メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

[6]寝ない、起きない、食べない

中村計 ノンフィクションライター

 ワモンゴキブリ。

 沖縄に生息している亜熱帯産のゴキブリの名称だ。大きいものだと5センチ近くにもなる。本州の小ぶりなゴキブリに見慣れていると、ややぎょっとするような風体だ。しかも動きが滅法速い。

 池澤夏樹が編集した『オキナワなんでも事典』によると、アメリカで開催されたゴキブリの大きさを競うコンテストで、沖縄代表のゴキブリは2年連続で優勝したのだとか。つまり、世界的に見てもそれぐらい立派な体格をしているのだ。

 我喜屋優が就任したばかりの頃、興南の野球部寮では、このワモンゴキブリが「運動会をしていた」という。我喜屋は堅物な半面、ユーモラスなところもあって、こういう言い回しを好む。

 私が一番気に入っているジョークはこんなものだ。

 近しい知り合い数人で開かれた春夏連覇のお祝いの席でのこと。我喜屋が登場するなり、ひとりが「よっ! ときの人」とはやし立てた。すると、我喜屋は即座に「いえ、いっときの人です」と返したという。単なる駄洒落に終わっておらず、なかなか含蓄がある。

 小さなことができない人間は、大きなこともできない――。それが我喜屋の口癖だ。

 我喜屋は、やりたい放題のワモンゴキブリを追い出すためにも、就任するなり、まずは寮や部室の衛生状況を徹底的に改善した。

 当時、3年生で「3番・ショート」だった新崎慎弥(あらさき・しんや)が振り返る。

 「最初の頃は『こんな汚いところで野球をやってて、勝てるはずがないだろ!』って、よく言われていました。部室とか寮の入り口のところに簀(す)の子を敷いて、『外の菌はここから中へ絶対入れるな!』って。監督自ら掃除していたので、僕らもやらざるをえなかった。練習中も監督の奥さんが用意してくれたタオルを持って練習するんです。それをポケットに常に入れておいて、顔とかが汚れたらそれで拭く。ユニフォームの袖とかで顔を拭いたら、菌が入って体調を崩しちゃうかもしれないじゃないですか。それぐらい徹底していましたね」

 当時の3年生に、なぜ我喜屋は3カ月ちょっとで優勝させることができたのかと尋ねると、決まって口ごもった。変わったところはいくらでも数え上げることができるものの、その一つ一つはどれも実に些細なのだ。ワモンゴキブリを駆逐したからといって、それで急に伊波翔悟(浦添商)の剛速球を打てるようになるわけではない。

 だから結局、新崎のように、いくつかの断片を語り、最後は申し訳なさそうな顔でこう締めくくるのだ。

 「監督さんの言うこと、やってたら勝手に……という感じですね。みんなと集まって話しても、結局、そうなりますもん。連覇のあと、島袋(洋奨)と電話で話したときもそうでしたよ。『気づいたら勝ってました』って。あいつらが、そう言うぐらいですから。僕らもほんと、気づいたら勝ってたんですよ」

 部長の真栄田聡は、比屋根吉信(元監督)の教え子で、1991年から1997年まで監督を務めた。その後、付属の興南中学に移ったが、我喜屋の監督就任と同時に高校に戻ってきた。そのときの印象をこう語る。

 「練習もそれなりにしていましたし、選手もそろっていた。何でこれで勝てないの? という感じでしたね。だから、まったく力もないのに急に勝てたというわけではない。我喜屋監督が3カ月で最大限、彼らの力を引き出したということだと思いますよ」

 二度目の長い低迷期に入っていた興南は、例えれば、生きるか死ぬかといった大病を患っていたわけではなかった。いや、それなりに勝っていたことを考えれば、低迷期という言葉すら当てはまらないかもしれない。

 どこか体調がすぐれない――。そんなものだった。ゆえに本格的な治療を施すタイミングを逸していたとも言える。

 興南だけではあるまい。同じような症状のチームは全国に無数にある。選手もそれなりにそろっている。練習もそれなりにやっている。なのに、いいところまでは勝ち上がるのだが、最後は勝てない。

 当時の興南に必要だったのは、神の手を持つスーパー外科医ではなかった。生活改善や投薬によって緩やかに、しかし根気強く治療してくれる内科医だった。つまり、我喜屋のような指導者だったわけだ。

 我喜屋は、普通の人だったら見落としてしまいそうな小さなところ、寮や部室の衛生管理などから少しずつ、だが確実に手をつけていった。

 それは水で穴をうがつような作業だった。新崎の感想がそれを物語っている。一日一日の変化は、ほんのわずかだ。したがって選手たちの意識も希薄になる。だが、間断なく繰り返せば、いつか成果は目に見える形となって現れる。それが「気づいていたら勝っていた」という24年ぶりの甲子園だったのだ。

 主将を務め、ピッチャーと外野を兼任していた幸喜竜一も、今もって不思議そうに振り返る。

 「ほとんど変わっちゃったんで、何が変わったのかわからなくなっちゃったのかも。元がなんだったのか……。何が変わったかっていったら、全部なんでしょうね。やっぱり」 

 寝ない、起きない、食べない。

 我喜屋が、いの一番に手をつけたのは、この三つの「ない」だった。

 沖縄は夜型社会だ。たとえば県内の「スターバックス」の営業時間ひとつをとってもそうだ。各出張先で仕事場としてよくスターバックスを利用するのだが、郊外に立地するドライブスルー型の店舗を除き、どこの地域の店舗もだいたい夜9時から10時の間に閉まる。どんなに遅くとも11時までだ。

 だが、沖縄は、ほとんどの店舗が深夜12時まで営業している。その代わり、どこも開店時間は9時と遅い。

 そんな地域的な慣習が高校生に影響しないわけがない。幸喜が言う。

 「以前から寝坊は許されなかったので、朝はがんばって起きていました。けど、夜、寝ない人は多かったですね。だから、必然的に睡眠時間が減ってしまう」

 消灯時間に電気さえ消せば、あとは何をしていようと基本的に咎められることはなかった。

 我喜屋は、やると決めたら最後までやり通す男だ。消灯時間の夜11時になると寮を巡回し、起きている者がいないかどうか確認した。わずか1分過ぎていても許さない。トイレにいても「なぜ前もって行っておかなかったんだ!」と問い詰めた。

 枕元の携帯音楽プレーヤーの小さな光も見逃さなかった。音楽を聴いていたのがばれた選手は翌日、バスで練習試合に向かう途中で突然降車を命じられ、「おまえはいらん! こっから走って帰れ!」と怒鳴られた。

 我喜屋は指導者になってからというもの、社会人時代から通じて、一度しか手を上げたことがない。その一度

・・・ログインして読む
(残り:約1760文字/本文:約4498文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

中村計

中村計(なかむら・けい) ノンフィクションライター

1973年生まれ。千葉県出身。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。『甲子園が割れた日―松井5連続敬遠の真実―』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかの著書に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)、『横浜vsPL学園――松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)など。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです