久田将義
2013年03月11日
作業員たち十人くらいに取材し始めたのは、あの震災から半年くらい経った夏頃だったと思う。いわき駅に降り立つ度、ジャケットが暑さの為わずらわしかったのを憶えている。取材したほとんどの作業員が相双地区や南相馬市の出身。つまり原発の街で生まれ、原発作業に従事していた。また取材した彼らは、総じて歳も若いので、福島第一第二原発を遠くに見て育ってきた。
そして2年前の3月11日午後2時46分を福島第一原発(本稿では作業員たちが呼んでいるように1Fと通称で呼ぶ)のタービン建屋の中や、あるいは休憩所で体験した。まだ20代の作業員の一人は「ああ、こういう映画があったな。こういう風に死んでいくんだな」と思った。
少し前だが、僕が福島に行けないでいる代わりに、別の作業員が東京まで訪ねてきてくれた。「(酒を)飲みに来ました」という事だった。彼らとも話をしていなかったので、現在の仕事は除染作業かそれとも2F(福島第二原発)かなと思い、「今はどこに入っているの」と聞くと「相変わらず1Fですよ」と苦笑する。「一時期、1号機の側で作業しいていたんですけど線量ハンパないですよ」と眉をしかめる。
飲んでいても自然とそういう話になってしまう。初めは、芸能界のゴシップやテレビネタなどで笑いながらバカ話をしているのだが、時間が過ぎ、話が途切れるとポツンとそういう言葉を発する。一時期、僕も取材で1Fに入ろうと思った事があった。が、「入っても記事を書く上で余り意味ないですよ。それより十年以上原発に入っている僕らが、今体験している事をそのまま書いて下さい」と言われた。そういう酒での話も含めて、彼らの本音をまとめた単行本を上梓した。中でも印象に残っているのが「福島差別」である。当時は確かに、「福島から来た」と避難先で言うと時々嫌な空気になったそうである。そのトラウマは多分、「一生消えない」と言う。「忘れますよ」と言う作業員もいた。
しかし、2年経ったくらいでは忘れる事はないようだ。僕の自宅の駐車場に作業員の自動車を停めたのだが、ナンバーが福島であったので、彼が「東京でこんなナンバー見たら何か言われるんですかね。大丈夫ですか?
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