薄雲鈴代
2013年04月05日
「中国残留孤児」といわれる戦争で孤児になった人々の子どもたち、そのまた次の世代が、まさにその苦境におかれている。かれこれ30年ほど前、中国に置き去りにされた孤児が、肉親を探しに日本を訪れた報道を、遠い出来事のように記憶しているが、あれは今なお日本の現実である。
日本人なのだから日本に帰ってきて、はい、それでおわり、とはならない。そこから始まる生活がある。しかもまったく違う環境での暮らしである。日本語が不慣れなばかりに、日常生活に障ることは多々ある。子どもたちは公立の小、中学校で解らないことだらけ。授業だけではなく、むしろ教科書の範ちゅうなど些細なことで、集団生活において怖いほど解らないことばかり。「わからないことは訊いてね」と担任の先生に親切にいわれても、そのわからないことが解らない。
精神的に一歩も二歩も出遅れて、気後れして、委縮して、どうにも埋まらないほどの距離ができてゆく。そうしていじめの標的にされるのも定跡である。苦痛な義務教育の最中にも、青年が抱く「こうありたい」という芽生えはある。しかし、高校へ進学したいと思っても、どのようにすればいいのか、どの高校へ行けばいいのか、ここでも「解らない壁」にぶち当たる。道を示してくれる親がいればいいが、親のほうでも解らないことだらけで、高校進学のシステムも解らない。経済的な問題はいうに及ばず。
「残留孤児」とは、酷いことばだと思う。自分の意思で残り留まったわけではない。中国に置き去りにされ、日本にも居場所がない、翻弄された状態にある。日本語に不慣れといっても、留学や仕事で自ら日本に来た外国人とはわけが違う。
日本には懇切丁寧に日本語を教えてくれる語学学校がいっぱいある。留学生たちは、まず語学学校で日本語を習得して、それぞれ専門の大学機関へ進学してゆく。わたしも執筆の傍ら、語学系の学校の教壇に立っている。しかしそこで日本語が習えるのは、かなり家庭が裕福な学生である。よしんば金銭的に余裕のない学生でも、そこで学ぶ手段を知っている家庭の子どもたちなのだ。
そんな手段をもたない、学ぶ方法を知らない子どもたちがいっぱいいる。家庭や学校に自分の居場所がない子どもたち。話すことも書くことも苦手で、教室の中では暗闇に独りで置かれているような精神的状態にある。そんな彼らも、深夜の居酒屋やコンビニのアルバイトでは重宝される。日本語ができなくても出し巻を作ることは上手い。深夜の重労働でも、自分を認めてくれる雇い主のために一生懸命働く。わたしの知る幾人かは、日本で安穏と育った同世代の何倍も働く。ただただ自分を認めてくれることが嬉しくて、そこの店長や社長のために純粋に力を発揮する。はじめて得た居場所なのだ。
それが善きおとなとの出会いならばいいのだが、そうとばかりは限らない。盛り場の有力者の使い走りから身のまわりの世話をするようになる。その世話のひとつが、毎朝社長が欠かさず吸引するクスリ(非合法)の調合であったり、金銭の取り立てであったりする。
関西に暮らしていると、
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