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[9]なんくるならない

中村計 ノンフィクションライター

 なんくるないさ。

 沖縄の方言で、なんとかなる、と解釈されることが多い。

 失業したばかりの沖縄の知人と一緒に居酒屋で泡盛を飲んでいたとき、彼が自分に言い聞かせるようにつぶやいたことがある。

 「なんくるないさ」

 自暴ではない。かといって希望でもない。沖縄人独特の時間感覚、時の流れに対する信頼の言葉なのだと思った。

 今はもう店仕舞いしてしまったが、那覇市内に我喜屋優が行きつけの『拓洋』という沖縄料理屋があった。ここのおかみさんは興南のOGで、1年生のとき我喜屋と一緒のクラスだった。

 「高校時代の我喜屋さんは、モテました?」と尋ねると、わざとらしく顔をしかめる。

 「わたしはなかったね。あんな男に惚れた腫れたなんて」

 そこのマスターは昨今の「なんくるないさ」の誤用を嘆いていた。

 「本来は、他力本願ではないんですよ。真面目に生きてればいつかきっといいことがあるよという、美しい、意味を持った言葉なんです」

 確かに今は怠惰な自分を正当化させるための言葉となっている嫌いがある。だから、我喜屋が嫌悪するのだ。

 「最初の頃は、毎日イライラしてた。沖縄の子に小さいことを教えるの、大変だよ。誰もが『なんくるないさー』だから。俺は普通の人が1カ月かかるところを1分でやらせる自信がある。でも、そんな俺でも彼らの24時間を変えるのに1カ月かかったからね」

 なんくるならない――。

 教育的な意味を込め、我喜屋はことあるたびにそう口にする。

 「野球ってのは、50センチでアウトかセーフが決まるスポーツだよ。三塁コーチャーはセーフになると思って回してるのに、スタートのときに1メートルも2メートルも遅れてへっちゃらでいるやつなんて話にならない。戦闘態勢になってないもん。昔の沖縄の馬車は待ってくれたかもしれないけど、内地の電車は待ってくれないよ。野球はいろんな決まりやルールがある。社会と同じっしょ。だから、日ごろの生活から『なんくるならない』って、いつも言ってるの。そうやって決め事に慣れさせたの」

 我喜屋は「なんくるないさ」精神の一掃を目指した。

 練習中も容赦なかった。全員でバットスイングをするとき、輪の中に入るタイミングが少しでも遅れたら、その選手は参加させなかった。

 「おまえはもう入らなくていい! 興南のグラウンドはいつも試合だよ! 試合始まってから球場にきたって遅いだろ!」

 夏の大会では、バスの出発時間に間に合わなかった選手を置いてけぼりにしたこともある。

 「沖縄の野球は、すぐ『沖縄タイム』が出てくるから。30分や1時間ぐらい、遅れても平気。それでも慌てないし、生活も変えようとしない。そういう沖縄人気質を知ってないと、頭にきてやってられないよ」

 興南OBでもあるコーチの砂川太が思い出す。

 「僕らの時代も、取材にきた方々が驚いてましたね。今はもうそんなことはありえないですが、9時練習開始だったら、9時10分ぐらいまでは木陰で寝てるような状態だった。それでも当時の沖縄では厳しい方だったんです」

 些細なことだが、今回の沖縄滞在中にもこんなことがあった。

 あるホテルで午後1時に我喜屋の知人と待ち合わせをしていた。時間を逆算し、12時30分頃、ホテル近くの沖縄そば屋に入った。東京の感覚であれば、遅くとも10分前には待ち合わせ場所に着けると考える。だが沖縄は違う。昼時で店が混んでいたとはいえ、55分になってもそばが出てこないのだ。

 腕時計をチラチラ見つつ、カウンターの店員さんに目配せする。それに気づいたおばちゃんが言った。

 「1時? 大変やねー」

 そう言ってニコニコしているのだ。1時に約束があることは理解してくれているようなのだが、だからといって急いでくれるわけでもない。罪悪感があるのなら責めようもあるが、そんな意識はまったくないのだ。作業ペースを上げてもらうまでの遠い道のりを思うと、こちらも笑うしかなかった。これが沖縄なのだ、と。

 こうした時間感覚の中では、急かすという行為は、きわめて無粋で、もっといえば、無作法なことなのではないかという気持ちになる。

 「なんくるないさ」

 思わずそう言いたくなる気持ちはよくわかる(これも誤用かもしれないが)。

 1999年春、沖縄尚学が沖縄勢として初めて全国優勝を成し遂げたときの監督で、現在は長崎日大で指揮を執る金城孝夫も、かつてこんな風に嘆いていた。沖縄に戻りたくなることはないのかと尋ねたときのことだ。

 「沖縄の選手は、どうして勝敗にこだわらなければいけないのかということから教え込まないとならない。それから始める苦労を思うとねえ……。野球を教えるのなら県外の方が楽ですよ。暖かいところに住んでる人間は凍え死ぬことがないから、家がなくたってなんとかなっちゃう。だから『なんくるないさー』なんだよ。のんびりしている。沖縄で教えるのは内地の2倍、3倍、時間がかかるよ」

 沖縄出身者の身体能力の高さについては、ずいぶん昔から野球関係者の間で噂になっていた。沖縄では毎年1月、「野球競技大会」を開催している。高校野球連盟に加盟している県下の全野球部が参加し、短距離走、長距離走、遠投、ロングティー、またはボール回しのタイムなどを競う。選手を獲得する目的で視察に訪れていたある大学関係者は目を丸くしていたものだ。

 「遠投100メートルとか、50メートル走6秒0がゴロゴロいる。なんで沖縄が毎年、優勝しないのか不思議でしょうがないよ」

 沖縄の選手はユニフォームを着ているときはほっそり見えても、その下にボクサーのように引き締まった肉体を隠し持っている。強く、そして柔らかい体。それは後から手に入れようとして手に入る種類のものではない。

 彼らの身体能力を阻害しているもの。それが「沖縄タイム」に代表される県民の精神性だと言われ続けてきた。

 古い話になるが、沖縄のある甲子園常連校の監督は、選手に勝負根性をつけさせようと、素手でボクシングの試合をさせたり、生きたニワトリの首を包丁で切らせたりしたことがある。方法的にそれが適切だったかどうかはさておき、それぐらい自分たちは競争に不向きなのではないかという劣等感があった。

 それを裏付けるように、プロ野球界には、今も根強く沖縄出身のプレーヤーは成功しないというジンクスがある。関西球団のスカウトがこんな話をしていた。

 「今はもう、大阪やからとか、四国やからってことはないんじゃないですか。どこも一緒ですよ。東北の子やからって、気が弱いこともないでしょう。これだけボーダレス化が進んどるんやから。ただ、沖縄の子だけは、優しいイメージがあるなあ……。沖縄の子の身体能力は、ほんまにすごいんやけどな。でも、沖縄ということで評価を差っ引かざるをえない」

拡大広島二軍監督のときの安仁屋宗八

 ただし、例外とされている沖縄出身のプロ野球選手が2人だけいる。ひとりは、右横手の投手で、「沖縄の星」と呼ばれた県初のプロ野球選手、安仁屋(あにや)宗八である。

 沖縄がまだ米軍統治下にあった1964年に広島に入団し、広島-阪神-広島と渡り歩き、プロ18年間で119勝124敗の成績を残した。安仁屋が成績以上に鮮烈な印象を残したのは、「巨人キラー」として巨人から34勝を挙げたからでもある。今も昔も投手王国と呼ばれる沖縄だが、これだけ長きに渡り第一線でプレーした沖縄出身のピッチャーは、現在まで安仁屋をおいて他にいない。

 素質で言えば、元阪神の「マイク」こと仲田幸司、福岡ソフトバンクの新垣渚、千葉ロッテの大峰祐太らの方が上かもしれない。だが、彼らは、いいときは神懸かり的な投球を見せる一方で、悪いときは目も当てられないほど荒れる。その浮き沈みが極端なのだ。だから「長きに渡って第一線で」プレーできなかったし、できずにいる。

 そして、もう一人、通例から外れているとされるのが元

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筆者

中村計

中村計(なかむら・けい) ノンフィクションライター

1973年生まれ。千葉県出身。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。『甲子園が割れた日―松井5連続敬遠の真実―』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかの著書に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)、『横浜vsPL学園――松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)など。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです