2013年04月17日
我喜屋優がどういう人物かと聞かれたならば、ひとまずそう答えたい。
電話のときもそうだ。
「はい、我喜屋です」
そう言ったきり、その後、こちらが何か言わない限り言葉が継がれることはまずない。「どうもどうも」という類の前置きは一切なく、用件が済めば、あっさりと電話は終了する。
一介の記者に対する対応としては何ら不思議ではない。最初はそう思っていた。でも、何度電話をしても、その間合いは変わることがなかった。
ただ単に自分のことを覚えてくれていないのだろうという楽観は、嫌われているのではないかという悲観に変わった。しかし、取材に行けば行ったで決してそんな風でもないのだ。
よくよく聞いてみると、そんな不安にかられるのは私ばかりではなかった。我喜屋の教え子でさえ、同じような感想を抱いていた。
「いつも、最近なんかまずいことしたっけ、って思っちゃいますね。最近どうだとか、元気にやってるかとか、まずないですから。優勝のお祝いの電話をしたときも『お、ありがと』だけでしたね」
かといって、薄情な感じがするかというとそんなこともない。誰に対しても取り入ったりすることがない我喜屋のそんな態度は、不思議な安心感さえある。
そして、この無駄を嫌う実際的な性格が野球にも確実に生きている。
興南と言えば、独特のボール回しが有名だ。通常は、それぞれのベースを踏んだ状態で待ち、捕球し、次の塁へボールを回す。だが興南の場合は、前後左右、3、4歩離れたところで待ち、ベースに入りながら捕球し、ボールを回す。
我喜屋が説明する。
「試合で最初からベースについて捕ることなんて、ほとんどないでしょう。なんで試合にないことをやるの?」
反論の余地がない。
フリーバッティングやティーバッティングのときは、球種も、コースも一球ごとに変え、あえて打ちづらくする。
「試合で、ここ投げますよ、って教えてくれるピッチャーいる? 打者に向かってくるボールは全部、敵のボールだよ」
もっともである。一方では打ちやすいボールを投げて打撃フォームを固める方が先決だという考えもあるだろうが、我喜屋にとっては、そんな練習は電話のやりとりで言えば「前置き」、つまり無意味なことなのだ。
電話のときいきなり本題に入ることを求めるように、野球でもいきなり試合に入れるような練習を求める。それが我喜屋流なのだ。
部長の真栄田聡は、我喜屋がやってきたばかりの頃を思い起こす。
「カルチャーショックじゃないけど、こんな練習もあるんだって思いましたね。後ろ向きにダッシュしなさいとか、横向きに走りなさいとか、斜めに走りなさいとか。考えたら、確かに守備で前を向いてダッシュするなんて動きはほとんどない。常に実戦、実戦、実戦だから、説得力がある」
我喜屋が変えたのは、もちろん生活面だけではない。練習方法も全面的に見直された。その中でも特徴的なのはアップだ。
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