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[15]「慰霊の日」に生まれて

中村計 ノンフィクションライター

 あの家で日がな一日、海風に当たることができたなら、どんなにか気持ちがいいことだろう。誰もが一度は夢見るような家だった。

 目の前の海を独占するために設計された家――。

 砂浜から10メートルあるかないかの石垣の上に建つ、コンクリート打ちっ放しの2階屋。こだわり抜いて造ったことが一目でわかる小さな美術館のような住居だ。

 1階部分の中央は、まるで車のガレージのシャッターと見紛うような大きな雨戸で覆われており、そこを開放すれば、出来る限り窓枠に邪魔されない大きな海の景色を手に入れることができる。

 家主の宮本亜門が、そんな視界いっぱいに広がる海を陶然と眺めている様子をテレビか雑誌で見た記憶があった。あれは、この家だったのだ。

 日本を代表する演出家の別邸は、砂川匠吾が我喜屋優に連れて行かれた喫茶店、浜辺の茶屋のすぐ隣にあった。

 浜辺の茶屋からの景色が気に入った宮本は沖縄を訪れるたびにここへやってきて、ついには隣に住居を構えたのだ。それらのことは喫茶店で販売していた『奇跡のカフェ 沖縄「浜辺の茶屋」物語』という本で知った。

 その本によれば、家が完成した日、宮本はお披露目パーティーの席でこんなスピーチをしたという。

〈ここは奇跡的に残っている海です。これまで、埋め立てられて発電所になる計画があったり、人工ビーチの話が上がったりしました。青い海や青い空は世界のどこにもあるけど、このイノー(珊瑚礁湖)のなんともいえない美しい魅力が、沖縄を守ってきた大事なもののひとつ。干潮のときは、人が静かに歩けて、たくさんの生物が暮らすこのイノーは、世界的に見渡してみても、この沖縄にしかない貴重なもの〉

 サンゴ礁の発達した沖縄の海は、沖からやってきた荒波をそのサンゴ礁が小さく砕く。そのため水面が湖のように静かなのだ。沖縄ではそんな海のことを「イノー」と呼んでいる。

 「奇跡的に残っている海」

 浜辺の茶屋から一度でも海を眺めた経験がある者ならば、少なからず、その心境がわかるのではないか。

 廉価な足場板でつくった店内の素朴な空気感も相まって、店から望む海は、肌寒い日に薄いカーディガンをはおったときのような温かみを与えてくれる。

 沖縄に海を求めて訪れる観光客の多くは、北部にある恩納村などの一大リゾート地へ向かう。一方、玉城が位置する南部にやってくる観光客のほとんどは、ひめゆりの塔をはじめとする戦跡が目当てだ。しかし南部の海には、北部の海にない魅力がある。未開発なぶん、沖縄の原風景を体感できるのだ。

 我喜屋は、そんな海辺で相撲や釣りをし、またときに石ころを投げ、幼少期を過ごした。

 我喜屋の生家は、今はもう野原に帰してしまったが、浜辺の茶屋から歩いて数十分のところにあった。

 ある小学校へ講演に出かけるとき、その車中でハンドルを握りながら我喜屋がポツリと言ったことがある。

 「くそったれっていう負けん気は、持って生まれたもん。環境によってつくられたんだよ。玉城っていう場所からして、すでに逆境じゃない。150人ぐらいしかいない部落でさ。でも、やらなきゃいけないんだもん。逃げるわけにいかない。だからこそ、大きなものにチャレンジする力が生まれたのさ」

 今なお自然が豊かだということは、我喜屋が生まれた当時は、それこそ単に田舎であることの証明以外の何ものでもなかった。

 世間一般で言われる終戦記念日は8月15日だ。ポツダム宣言を受諾し、玉音放送によって国民が終戦を知らされた日だというのが、その根拠だ。

 しかし沖縄では終戦記念日といえば、沖縄における米軍の組織的戦闘が終結した6月23日、いわゆる「慰霊の日」のことを指す。沖縄ではこの日を休日に定め、例年、摩文仁の平和祈念公園で大々的な追悼行事を開催する。

拡大「慰霊の日」の6月23日、「平和の礎」の前で戦中に亡くなった人の名前を前に手を合わせる人たち=2012年、沖縄県糸満市

 我喜屋は1950年、その慰霊の日に、父・加那(かな)、母・文(ふみ)の三男坊として玉城村で生を受けた。終戦から5年が経ち、県内各地で米軍基地の建設が本格化していた頃でもあった。

 本土では対照的に13歳の天才少女、美空ひばりが映画『東京キッド』の主題歌を歌い、大ヒットを飛ばしていた。〈右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム〉という底抜けに陽気な歌詞から想像できるように、ようやく敗戦のショックから立ち上がり、明日を信じ始めていた。

 戦中は「産めよ増やせよ」の時代だった。それゆえ我喜屋家も御多分に漏れず子だくさんだった。我喜屋が生まれたときすでに4人の姉と2人の兄がおり、その後、弟と妹が1人ずつできた。だが、姉2人と妹を病気で亡くした。現在は姉2人、兄2人、弟1人の6人兄弟だ。

 我喜屋と14歳も年が離れている長男の湖正(こまさ)は、今も暇を見つけてはカメラを片手に興南のグラウンドに顔を出す。選手らは、いかにも好々爺といった風情の湖正を親しみを込めて「総監督」と呼ぶ。

 その湖正は戦中、自宅近くの海で特攻隊を目撃したことがある。1945年4月、米軍が沖縄に上陸すると、本土から250キロもの爆弾を搭載した特攻機が次々と沖縄にやってきたのだ。

 「古い墓の中に隠れて見てた。目の前の海には、アメリカの軍艦が、100隻近くきてたと思うよ。そこへ特攻隊が突っ込んでいくの。ぜんぜん近寄れないから、ぜんぜん当たらない。そのまま海にどんどん落ちていった。子どもだったけど、突っ込んでいくの見ながら、無駄死にだと思ったよ」

 周知の通り、特攻隊はほとんど戦果を挙げられなかった。

 湖正が続ける。

 「そんな時代だから、食べるもんなんて、何もなかった。僕は(身長)165センチぐらいなんだけど、四男は180近い。長男、次男、三男、四男と下がるにつれ、大きいの。どうしてかわかる? 食料事情がよくなってったからだよ」

 ちなみに我喜屋の身長は173センチだ。それでも我喜屋も小さい頃、食卓にご飯、みそ汁、おかずの3つが並んだことはほとんどなかった。お米を食べる機会はほとんどなく、代わりに田芋(ターンム)と呼ばれる田んぼでつくったサトイモを食べた。また、腹が空いたら、自分で魚を釣り、自然に生(な)っているバナナやグァバを貪った。

 一家の大黒柱である加那は、近くの米軍基地内で水道関係の仕事をしていた。しかし、あまり仕事がなかったため、頻繁にサバニ(沖縄の小型漁船)で漁に出かけた。

 湖正が思い出す。

 「オヤジは左手の指が

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筆者

中村計

中村計(なかむら・けい) ノンフィクションライター

1973年生まれ。千葉県出身。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。『甲子園が割れた日―松井5連続敬遠の真実―』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかの著書に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)、『横浜vsPL学園――松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)など。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです