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[16]佐伯天皇

中村計 ノンフィクションライター

 1958年、我喜屋優が小学2年生のとき、日本球界にとってエポックを画する出来事が二つ起きた。

 2005年の日本アカデミー賞で全13部門受賞を果たした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の中で、CGで描いた建設中の東京タワーを見上げるシーンが話題になった。その東京タワーの完成が1958年10月だから、ちょうどあの映画の時代設定と同じ時期だ。立教大学のスーパースター、長嶋茂雄が読売巨人軍に入団し、東京六大学とプロ野球の人気が逆転する契機となった。

 もう一つは、沖縄高校野球史の曙といっていいだろう、第40回全国高校野球選手権において、沖縄代表の首里高校が県勢として初めて甲子園の土を踏んだ。

 「夏の甲子園」と呼ばれる選手権大会は前年まで、各地区大会を勝ち抜いた23校にしか出場権は与えられていなかった。沖縄勢の場合は、県で勝ち抜き、さらに大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の5県で構成される東九州大会(1948~1957年実施)で優勝しなければ全国大会には進めなかったのだ。

 ところが第40回大会は節目の大会ということもあり、大会史上初めて全都道府県プラス沖縄の優勝校に出場権が与えられた。沖縄はまだアメリカの占領下にあったため、新聞等では「全国四十六地区および沖縄を含めた四十七代表」と表記されている。

 選手権大会が始まったのは1915(大正4)年だが、沖縄勢が二次予選にあたる九州大会(1915年~1924年実施)に参加するようになったのは、1922年の第8回大会からである。ただし、以降、沖縄勢は毎年出場したわけではなく、勝つ見込みがあるときだけエントリーした。その意気込みの低さから実力のほどが想像できる。もちろん、地理的な問題から、情報も、環境も、何もかもが本土よりは遅れを取っており、致し方ないことでもあった。

 1924年に二次予選の九州大会が解体されると、代わって今度は南九州大会が立ち上げられた。沖縄県はそこで熊本県、宮崎県、鹿児島県らとともに代表権を争った(1930年から大分県も加入)。その頃になると、本土では1934年に東京巨人軍が創設したのを皮切りに大阪タイガースなどの職業野球チームが次々と誕生し、野球技術は飛躍的に向上した。その結果、置いてけぼりを食った沖縄との実力差は埋めようがないほど広がってしまった。

 沖縄のチームは、南九州大会に出場しても、1、2点取るのが精一杯だった。一方、二桁失点は当たり前で、ひどいときは20点以上献上した。1940年の南九州大会では、沖縄水産が熊本商に0-31という大敗を喫している。まるで地方大会の1、2回戦のようなスコアである。

 また沖縄には1960年に奥武山球場ができるまでフェンスで囲われた球場さえなく、野球といえば、語源そのものに石ころがゴロゴロと転がっているような「野っぱら」で興じるのが当たり前だった。そのため1958年、野球場で初めてプレーすることになった首里高は、大阪へ向かう途中、鹿児島県の鴨池球場を借りて外野フェンスに当たって跳ね返ったボール、野球用語で言うところの「クッションボール」の処理の仕方を何度も練習したという。

 そんな「野球後進県」に救いの手を差し伸べたのが、のちに1967年から14年間、第3代日本高校野球連盟会長を務めることになる「高校野球の父」こと、佐伯達夫だった。

審判委員長として、夏の甲子園大会で挨拶する佐伯達夫氏=1979年

 佐伯は今につながる高校野球連盟の自主自立を実現した、高野連の最大の功労者である。

 だが、そんな功績の陰で「佐伯天皇」と畏怖されていたように独裁的な一面もあった。煌(きら)びやかさを嫌悪し、少しでも商業主義と見なされるものは徹底的に排除した。

 そんな思想の延長線上にあったのだろう、佐伯と言えば、不祥事に対しては容赦なかった人物としてつとに知られる。

 2007年12月8日付の朝日新聞では、やや誇張の嫌いもあるが、日本高校野球連盟参事、田名部和裕のこんな言葉を紹介している。〈高校野球のかたち〉という連載記事の中の一節だ。

 〈昭和40年代は消しゴム1個盗んでも1年間出場停止だった〉

 佐伯が会長の椅子に座していた時期だ。今では考えられないことだが、補欠部員がタバコを吸っただけでも、同じ高校の一般生徒がケンカしただけでも、すわ出場辞退かという時代だった。

 佐伯の後を継いだ第4代高野連会長の牧野直隆が不祥事に関する連帯責任について寛大だったのは、そんな圧政の反動でもあった。

 ただし、佐伯のそんな気質は、過剰とも思える面倒見のよさと裏表だった。

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