メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

他者への想像力に欠ける橋下市長慰安婦発言

菘あつこ フリージャーナリスト

 「まるで、飲み屋での会話かワイドショーでの発言やな~」と思った。「慰安婦は必要だった」「アメリカ兵に風俗を」、どちらも飲み屋等で、同様のことを叫ぶ男性は結構多いのかもしれない。だが、何が問題ってプライベートとは言えない場で、地方公共団体の首長がする発言としてはかなり問題がある。そして、その問題をまわりじゅうから批判されつつも、その後の発言を聞いていると、それのどこがどんなふうに“問題なのか”ということに、当の本人が気づいていないように私には見える。故意に分からないふりをしているのかも知れないが、もしかすると、本当に“何故問題なのか”、まったく思うところがないのかも知れない。 

 私は関西に住んでいる。関西では、おそらく関東圏等他の地域に住んでいる方々以上に、橋下氏の発言に新聞やテレビで触れる機会が多い。「いつも本音で話す人だな」と感じてきた。それは、私個人の意見とは違っている場合も多いけれど、その歯に衣着せない思い切った発言が、多くの大阪の人に小気味良い印象を与え支持を得ていたのも間違いないだろう。

 だが、その発言の数々は、今回ほどではなくても度々批判を浴びてきた。それは、いつも“他者への想像力のなさ”から来ているように思う。世の中には、自分とは違う年齢、性別、生い立ち、価値観、立場……の人がいる。別の立場の人がその言葉を聞いたら、どう思うのか──そういったことを(あえてそうしているのか)まったく考えられていないように見える言葉が多いのだ。職業によってはそれでも良いだろう。だが、市長という立場では問題だ。市にはさまざまな人が住んでいて、地方公共団体というのはそのさまざまな人がより暮らしやすく充実した生活を送ることができるように働くべき存在なのだから、その首長は、もっとも、さまざまな立場の市民への想像力がなければならない仕事だと思う。 

 なのに、今回、女性という人類のほぼ半数を占める人々への想像力がなかった。私は批判を受けている発言内容だけじゃなく、「女性を活用」という言葉の使い方も気になった。「日本以外の国も戦時下では、女性を活用~~」の話だが、そもそも“活用”とは、その能力を活かして用いることを意味する言葉ではないのか。「日本は女性の社会進出が

・・・ログインして読む
(残り:約1025文字/本文:約2029文字)