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[17]首里高の歴史から

中村計 ノンフィクションライター

 首里高の甲子園初出場は、当時の日本にとって「高校野球」というジャンルでは括り切れないほどの一大ニュースだった。

 第40回大会の開幕式が行われた翌日、1958年8月9日付の沖縄タイムス夕刊は、〈仲宗根主将、堂々たる宣誓〉と題し、次のような記事を掲載した。通常、選手宣誓は一番くじを引いた者がやることになっていたのだが、この年に限っては、佐伯の推薦で首里の主将である仲宗根弘がやることになったのだ。

〈甲子園大会参加全選手の代表となって宣誓台にあがった仲宗根選手はがぜん人気の中心になり、各新聞社が談話をとるのにひっぱりだこ。話なかばに今度はテレビに出てくれと連れてくるありさま。/そのうち母親が沖縄からきていることを聞きだし、自動車で宿舎椿荘まで連れてきて親子の対談をさせ、仲宗根君は一日中報道陣の眼がそそがれるしまつだった。(後略)〉

 当時の首里高の注目度が想像できる。

 しかし、首里高は開会式翌日、その頃すでに甲子園出場14回を数えていた福井県代表の強豪、敦賀に0-3で敗れる。それでも大健闘だったと讃えられた。

 〈“よくやりましたね”  大会本部の人達が試合を終わった首里高へのねぎらいの言葉。これはこの試合をみた甲子園の全観衆の偽らざる感想でもある。ネット裏では首里高のファイン・プレーが出る度に“やった”とか“うまい”といった声に力は入る。全観衆の人気をさらった首里高、ことに仲宗根の機敏なプレイは好打とともに内地の第一戦級(原文ママ)に比して遜色がないとは一致した批評。(中略)/沖縄とはじめての実況放送を担当したABC朝日放送の中村アナも“おそらく十点以上の差で収拾がつかなくなったのではないかと予想したのが案外首里がねばったので思わず首里高に力が入りました”という。(後略)〉(『沖縄タイムス』1958年8月10日)

 試合が行われた日は、地元も空前の盛り上がりを見せた。

 〈この日琉球放送では朝日放送とタイアップ、国際無線電話を利用して試合の実況を中継放送、郷里の野球ファンの要望に応えたが、母校の首里高校をはじめ各職場や家庭ではラジオを取り囲んで刻一刻流れてくる試合の模様に耳を傾けていた。また那覇市内のラジオ店はどこもかしこも黒山の人だかり、首里高チームのふん戦ぶりを見守っていた〉(『沖縄タイムス』1958年8月10日)

 我喜屋優はこのときまだ8歳、小学2年生だった。記憶はおぼろげだ。

 「ガーガー、ピーピー鳴るラジオの前で手を合わせて、祈りながら聴いてたんじゃないかな。大人たちからしたら、戦地から戦況報告がくるのと同じような気持ちだったと思うよ。俺らが子どもの頃は、甲子園中継をテレビで観たっていう覚えはほとんどない」

 終戦から8年が過ぎた1953年、NHKがテレビ放送を開始し、1954年から沖縄を除く地域ではすでに甲子園のテレビ中継は始まっていた。だが、沖縄で中継されるようになったのは本土から遅れること5年、1959年からのことで、前年の首里高の初出場時はラジオの実況に耳を傾けながら想像を巡らせるしかなかった。

 ただし1959年になっても沖縄でテレビがある家はごくまれだった。そもそも本土で白黒受像器が普及したのも1959年だった。「昭和のシンデレラ」と呼ばれた美智子様と皇太子殿下のご成婚がきっかけに、普及台数は一気に200万台を超えた。しかし沖縄は玉城のように電気がきていない地域も多く、そんな時勢からも取り残されていた。

 首里高が初出場した第40回大会の覇者は、山口県代表の柳井高校だった。が、大会をもっとも湧かしたのはエース板東英二を擁する準優勝の徳島商だった。

 板東は、準々決勝の魚津高戦で今も語り継がれる「延長18回引き分け再試合」を演じるなど、一大会で計62イニングス投げた。この大会記録は2006年夏、全国制覇に導いた早稲田実業の斎藤佑樹がマークした69イニングスに破られたものの、一大会83奪三振という記録は、斎藤でさえも78個にとどまり、永遠不滅の記録だと言われている。

 首里高が帰途に着いたのは、その板東が決勝で柳井高校に0-7と打ち込まれてから1週間後のことだった。

 今では敗戦校は当日かその翌日には帰郷するものだ。しかしこの頃の敗戦校は実にのんびりとしていた。もちろん船と電車を乗り継ぎ4日がかりで大阪まできたということもあったのだろう、首里高は京都や奈良など関西各地を観光した後、さらに別府、熊本、鹿児島と寄り道をし、26日にようやく沖縄に戻ってきた。

 そして、ここで後々、アメリカによる沖縄統治時代の悲劇の象徴となっていく事件が起きる。

 ただ、意外なことに当時の沖縄タイムスを読む限り、沖縄ではその事件をまったくと言っていいほど大きなこととしてはとらえていなかった。

 8月27日付の同紙は、首里高の帰郷を伝える大きな記事の下に、植物防疫係官が瓶詰めされていた土を海に撒く写真とともに〈甲子園の土捨てる 植物防疫法にかかり〉という小さな記事を掲載した。記事中には、選手たちは〈暗い表情だった〉とある程度で、外国から土や植物を持ち込むと病害を及ぼす危険性があるため許可されなかったと淡々と振り返っている。後の「騒動」の大きさからいったら素っ気ないぐらいの扱いである。

 このニュースに情緒的に反応したのは、主催の朝日新聞だった。4日後、8月31日付の夕刊で〈“甲子園の土”哀れ、海へ 那覇 法にふれて捨てられる〉と題し、その記事の中で〈法は冷たい〉と訴えた。

 この記事が契機となり、首里高に対する同情論が全国に拡大していくことになる。もっとも有名なエピソードは日本航空の大阪支社に勤務する23歳のスチュワーデスの話だ。彼女は甲子園の小石を40個近く集め、土の代わりにと首里高に送った。整備が行き届いている今では考えられないことだが、当時は、甲子園の土にもわりと小さな石が混ざっていたのだ。

 その小石は首里高が甲子園初出場を記念してつくった碑の中に埋め込まれ、今も残っている。このとき首里高校に送られてきたのは小石だけではない。甲子園の土を混ぜて焼いた楽焼の皿や、甲子園の土そのものを送ってくる人もいた。無論、加工されていない土は再び海の底に沈められた。

 これらの友情物語は、捨てられた土の悲劇性を強めた。同情論はやがて怒気に発展し、防疫所に抗議の電話が殺到するという、もうひとつの悲劇を招く。

 鈴木洋史は前回書いた「日本の土 首里高校1958年の長い旅」の中で、こう述べている。

 〈今回の取材で、沖縄の複数の野球関係者が「沖縄では最初は強い憤りという感じではなかった」と証言している。だが、本土で沸き起こった憤りが沖縄に「輸入」され、それに刺激されたかのように沖縄でも怒りが増幅し、その矛先が同じ沖縄人である防疫官に向かったようだ。そこには本土から切り離され「平和」と「繁栄」から取り残されていく沖縄の現実に対する苛立ちも混ざっていたのかもしれない〉

 往々にしてそういうものだが、何か悲劇的な事件が起きたとき、当事者たちとは関係のないところで物語が加筆および修正され、暴走してしまうことがある。

 かわいそうな人たち――。そう思うことは、一種の快楽でもあるからだ。

 その結果、鈴木が指摘するように〈球児としての憧れとしての「甲子園の土」が、周囲、とりわけ本土の人間によって政治情勢と絡めた「祖国の土」へと変えられて〉いき、職務に忠実なだけだった市井の人を「罪人」であるかのように仕立て上げてしまった。

 首里高の初出場にまつわる一連の出来事は、いろいろな意味で当時の沖縄と本土の人々の心の格差をあぶり出した。もっといえば、その後、起こりうるさまざまな問題を示唆していたとも言える。

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筆者

中村計

中村計(なかむら・けい) ノンフィクションライター

1973年生まれ。千葉県出身。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。『甲子園が割れた日―松井5連続敬遠の真実―』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかの著書に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)、『横浜vsPL学園――松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)など。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。