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見通せていた弁護士大失業時代

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

 本件、法務行政についてシンクタンカーとしての業務知見をほとんど何も持ち合わせておらず、WEBRONZAの場で論じるべきが迷ったが、小職がなぜシンクタンカーになったのか、の源流がこの問題にあるため、ほぼ私的な昔話になるが、積年の思いを記させていただく。

 1990年から91年にかけて、私は「そこに山があるから」的な安易な発想で、司法試験の大手予備校なぞに通っていた。大学の一般教養単位修了相当(=事実上3年生以上)なら誰でも受けられるその試験は、択一試験(大学入試で言うセンター試験相当)で倍率5倍、2次の論文試験で10倍、最後の口頭試問(面接)で1.5倍、最終合格まで60~80倍くらいであった。初受験から合格するまで平均7年だが大きくは二通りで、学生の頭の吸い込みの良さのまま勢いで受かる3年くらいの集団と、その盛りを逃して退路を断って人生賭けた結果10年くらいで受かる集団とに分かれている、と聞かされていた。しかも司法試験合格後に修習所で学ぶ内容が試験勉強よりはるかにハード(修習は現在1年だが当時2年間で、最初の1年分は現在修習所でもロースクールでも行っていない「穴」になっている模様)で、試験勉強などはあくまでスタート、修行の序の口、と聞かされていた。今も司法試験は就職試験の最難関の一つだろうが、未来の安定した地位や高い収入の代償として、青春を賭けて取り組む就職試験としてはあまりにもリスキーであった。

 これだけの労力と時間をかけて合格した人が果たして法律に対して社会常識を踏まえた判断ができるまともな神経の持ち主なのだろうか、実務の例などを学生目線で聞きかじるにこれだけ膨大に学んだことを仕事で全部使える状態にしておく必要がある職業なのだろうか、などと

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