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[7]ヒデノリとマサトの距離

永尾俊彦 ルポライター

 「阻止闘争」で小長井漁協の嵩下(だけした)正人さん(57)が痛感したのは、「ここに100人、200人の犠牲者が出てもこの干拓はやる」という国家の非情な意思だった。国や県に逆らっても何もできないと身に染みて感じた。以後、「この阻止行動の教訓を中心にものを考えていくのがベスト」と思うようになったという。

 タイラギ漁の収入が途絶え、多くの漁民は漁船や漁具などの借金を抱えて困窮した。嵩下さんは、自分の呼びかけで「阻止闘争」に参加してくれた若い漁師の生活が立ち行かないことの責任を痛感したという。

 「阻止闘争」の約束を実行してもらうために、嵩下さんは干拓事務所に出向いて詫びを入れ、懇願した。

 「もう阻止行動はしませんので、うちの若い連中を干拓工事に雇ってください」

 屈辱の夜、嵩下さんは泣いたという。自身は、「ペナルティー」として干拓工事には入らず、港湾の潜水工事の仕事で佐世保に行くつもりで、手続きもしていた。だが、干拓事務所から「リーダーがいないとまとまらないから」と請われ、青年部の漁師たちからも要請され、嵩下さんも結局翻意して工事に加わった。

漁民の建設会社マリンワークエージェンシーを創設した嵩下正人さん=撮影・筆者拡大漁民の建設会社マリンワークエージェンシーを創設した嵩下正人さん=撮影・筆者
 阻止闘争の翌1994年、8人の漁民で干拓工事の下請けの土木・港湾工事を請け負う会社「マリンワークエージェンシー」を設立、嵩下さんが社長になった。他にも小長井漁協の漁民の建設会社が設立され、これまでに全部で4社できた。

 ただ、諫早湾が閉め切られた後の1997年7月に嵩下さんに私が初めて会った際、「一個石を入れれば、その分、この海の生態系は崩れるという思いはあるよ。堤防が延びるほど海は汚れる……」と漁場を漁師自らが破壊する後ろめたさを語っていた。

 その後ろめたさを振り切り、自分を納得させるかのように嵩下さんがよく口にする言葉が「漁業で半分、マリンで半分」だ。タイラギ漁は壊滅してしまったが、アサリやカキの養殖で生活費の半分を稼ぎ、残りの半分はマリンの建設業で稼ぐという方針だ。これが最も現実的だ、と嵩下さんは考えた。

 そして、マリンの建設力で海砂を採取した跡地の穴を埋め戻すなど、「この海を漁業のできる海に創っていく」というのが嵩下さんの考えだった。そのためにはどうしても国や県の力が必要だ。

 農水省の歴代の干拓事務所長も、「干拓工事が終われば漁業ができる海にしましょうね」と異口同音に嵩下さんに話したという。嵩下さんは、その「約束」を信じた。工事に協力すれば漁民が食えるし、工事が早く終わるし、漁業のできる海が戻ってくる。 「一石三鳥ですたい」と嵩下さんは語っていた。

 マリンの最盛期には、年商7億円になり、小長井のみならず有明海の他の漁協の漁民も含めて70人ほどが働いていた。嵩下さんもベンツを乗り回せるほどの収入があった。

 だが、「ムツゴロウは夜遊びしないですたいね」と嵩下さんの素行をムツゴロウと比較して皮肉る漁民もいた。また、「裏切り者」と嵩下さんを非難する漁民は少なくない。匿名の脅迫電話も数回受けたという。

 「お前がこん海を売ったんだろうもん、クソガキが」「干拓から手を引け」「子供の通学、気をつけとけよ」……。

 他方、松永秀則さんも松永組という建設会社をつくり、干拓工事の下請けに入った。

 だが、松永さんは嵩下さんのように「漁業で半分、マリンで半分」とは割り切れず、ずっと漁師らしくない自分のあり方に「何ばしよっとかなあ」というすっきりしない思いにさいなまれ続けたという。その悶々とした思いを、毎日漁で使う潮見表の余白に書き付けたこともあった。だが、「生活をしていくためにはやむをえない」と、虚しい思いで土建業との二足のわらじをはいていた。

 松永さんと嵩下さんは親戚同士でもあり、二人は、「マサト」「ヒデノリちゃん」と呼び合う仲だった。嵩下さんは、東京や福岡などで働いた後に24歳頃に諫早に戻り、松永さんに頼まれてタイラギ漁の手伝いをしつつ、漁のてほどきを受けた。

 しかし、この頃から二人の間には少しずつ距離ができていく。

本心と建前の分裂

 タイラギ漁壊滅後、養殖アサリが小長井漁協の柱になった。だが、アサリも干拓工事が本格化した1989年には809トン採れていたのに、99年には384トンと半分以下に落ち込んだ。漁民が「毒水」と呼ぶ調整池からの排水の後、アサリが大量に死ぬことが繰り返された。99年の夏も排水でアサリが大量に死んだ。

 同年9月12日、松永さんらは再び「決起」した。が、今回は嵩下さんは参加しなかった。

 午後1時頃、「汚い水は流すな」「排水門を開けるな」などの横断幕を掲げた漁船6隻を潮受け堤防北部排水門の前に並べ、松永さんらは排水を実力で阻止した。

 後日、干拓事務所や長崎県と小長井漁協の協議が行われた。同漁協は、干拓工事に漁民の雇用を増やすことなどの「成果」をあげることができた。

 しかし、このような漁民の「決起」を利用して「成果」を引き出すような組合のあり方を、ある小長井漁協の漁民は「下手に動けば組合に利用されるだけ。いやらしか」と非難した。

 松永さんにとっては、「排水門を開けるな」というスローガンも不本意だった。本来なら「排水門を開けろ」と叫びたい。しかし、漁協の立場に遠慮してしか「決起」できなかったのだ。当時、松永さんは「素直な気持ちを言えば、潮受け堤防を壊してほしか」と話してくれた。だが、すぐに「これは書かんでください」と付け加えた。松永さんも組合理事であり、立場上、本心を公言できなかったのだ。

 「(漁協が)自ら開けてくれと言ったら、漁協が望んだから開けたのだということになり、被害があっても国、県は見て(補償して)くれん。だから、建前としては『開けてくれるな』と言うしかないんですよ」

 潮受け堤防を壊してほしいという本心と、干拓推進の漁協理事という建前の分裂に松永さんは苦しんだ。排水門で首をくくって ・・・ログインして読む
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筆者

永尾俊彦

永尾俊彦(ながお・としひこ) ルポライター

1957年、東京都生まれ。毎日新聞記者を経てルポライター。1997年の諫早湾の閉め切りから諫早湾干拓事業を継続的に取材。主な著書に『干潟の民主主義――三番瀬、吉野川、そして諌早』(現代書館)、『ルポ 諫早の叫び――よみがえれ干潟ともやいの心』(岩波書店)、『公共事業は変われるか――千葉県三番瀬円卓・再生会議を追って』(岩波ブックレット)など。