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最高裁は憲法問題で存在感を示せ

河合幹雄 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

 最高裁判事に就任した山本庸幸前法制局長官が、集団的自衛権について「憲法解釈の変更で認めるのは難しい。憲法改正するのが筋だ」と発言した。これに対し、菅官房長官は「非常に違和感がある」と批判した。この事態をどう受け止めるべきか。憲法改正に賛成か反対かの立場次第といったような乱暴な議論ではなく、最高裁と裁判官の役割という観点から検討してみたい。

 政治と司法が絡む論点は、従来、二つあげられてきた。

 第一は、日本の最高裁は、司法積極主義か司法消極主義かという議論である。当事者適格や訴えの利益がない、統治行為論、立法裁量論といった論法で憲法判断をできるだけしない消極主義をとってきたことは間違いと私は考えるが、反論する意見もある。それによると、憲法判断を避けるようでありながら、判決の中に、ここを超えれば違憲ですよとわかるように牽制する文言を入れる工夫をしてきたという。しかし、議員定数訴訟のように、その効力がなければ、これは厳しく言えば責任回避でしかないであろう。

 積極主義か消極主義かという観点より、それよりも根本的な、国民にとっての存在感という視点が必要である。裁判官ほど、国民にとって知られていない人たちはない。ただ漠然と尊敬される職業という状況である。日本の裁判官を多く見てきた者として、観察した印象を記せば、次のようになる。個人ベースでは、極めて優秀な人たちである。それで問題がないかといえば、組織として問題がある。サッカーにたとえるとわかりやすい。個の選手としては、高い技術を持ち、良く走り、ひとつひとつのプレーは批判のしようがなく見事である。精密司法と言われるぐらいである。しかし、90分間の試合が終わってみれば、誰一人シュートを放つものがいなかった。これは致命的な欠陥である。たとえ話には限界があるが、大局的な判断をすべき状況にあると認識しなければならない。

 第二の論点は、裁判官の政治活動の自由は、どこまで認められるかという問題である。欧米では、現役の裁判官が、ボランティア活動や市民の政治集会にも参加している。それに比較すれば、日本の判事たちは、まるで「ひきこもり」である。そのうえ、最高裁大法廷平成10 年12 月1 日決定(判例時報1663 号66 頁)は、地裁判事補の市民集会での発言に対して、裁判所法52条1号が禁じる「積極的政治活動」にあたるとして懲戒処分することを認めている。この判例に対しては、少なからぬ批判が表明されているように、懲戒すべきかギリギリの事例に、歴史上初の懲戒処分をしたというところに、大局的な判断ミスを認めざるをえない。確かに、一時期は現役裁判官がデモ行進したりして、

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