2013年09月10日
8日のテレビは、2020年五輪開催地に東京が決まったニュース一色だった。歓喜の瞬間、最終プレゼンテーションの紹介、東京五輪の経済効果……と、画面からは祝賀ムードがあふれ出していた。
2011年、石原慎太郎東京都知事(当時)が五輪再招致の意向を表明したとき、スポーツ界だけでなく、新聞の社説の多くは歓迎し、後押しした。読売は「復興の証しに聖火を灯したい」、日経は「五輪の開催で日本を元気に」とそれぞれ賛同。今年に入り、柔道女子日本代表監督の暴力指導が明らかになったときでさえ、毎日の社説は「柔道暴力問題 五輪招致とからめるな」との立場を示した。
猪瀬直樹都知事の失言や柔道女子監督の暴力・パワハラ問題は、東京への五輪招致での失点であり、国際認識や競技団体のモラルで招致に値するか、大きな疑念を抱かせる事態に思えた。
私個人の考えを述べれば、再招致が表明された2年前は、招致にかける資金があるなら、東日本大震災の被災地復興などもっと優先すべきことがあるはず、と東京五輪に反対だった。
だが、昨年のロンドン五輪のある場面を見て、考えがぐらついた。卓球の試合でセットが終わるたびに、卓球台から遠く転がったピンポン球を福原愛選手らがわざわざ拾っては審判に手渡す姿を見たときだった。点数にはつながらず、幾分かの疲労にもなりかねない行為を繰り返すのに感心した。卓球会場で示された「奉仕精神」や、日本選手がどの競技でも当たり前のように行う「フェアプレー」こそが、世界に誇れる日本のソフトパワーではないかと考えるようになった。
政治や経済が混迷し近隣諸国との友好関係が冷え切るなか、ひょっとして五輪が閉塞からの突破口になるのではないか。東京で選手だけでなくボランティアや観客が示すホスピタリティーが、政治家や外交官以上の外交力をアピールできるのでは、と心が揺れたのだった。
東京五輪招致成功の分析として、
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