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メディア教育の失敗を反省せよ

武田徹 評論家

 若者の悪ふざけが止まらない、と言われる。だが、これもまたよく言われることだが、大人だって悪ふざけはするし、「誰もみていないからいいや」的な行動をして来たはずだ。

 ただ、まともな大人はそれをツイッターで告白したりしない。だとすれば若者の悪ふざけ問題は2つのレベルで検討されるべきだろう。ひとつは誰もが反社会的行動への誘惑を日常的に受けており、時にそれに流されてしまうこと。これは普遍的な「悪」の問題として哲学を含めた人文社会科学的知見を総動員して検討すべきものだろう。そして、もうひとつは若者のメディア行動に関する議論だ。本稿では主に後者に限定した考察をしたい。

ケータイ教育の不在

 とはいえ若者のメディア行動を考えるとしてもやはり大人たちの責任を問うことになるだろう。なぜなら筆者は若者の最近のメディア行動は、彼らが受けてきたメディアリテラシー教育の失敗が背景にあると考えられるからだ。

 メディアリテラシー教育は、まずマスメディア情報を批判的に受容することに重点が置かれて始まった。ついでパソコンが普及し始めると、社会に出てから役に立つように、早くからPC操作の技術を身につけておく技術教育の要素が加わった。

 しかしそこで一貫して抜け落ちてきたのは携帯電話の利用法に関する教育である。学校教育の現場では携帯電話の使用を禁じ、ケータイをなかったものとする仮構を構築し、それに関わる一切の責任を放棄した。学校だけではない。親も携帯電話キャリア、監督官庁もある意味で「共犯」者だ。青少年が携帯電話を利用して犯罪に巻き込まれると危惧された結果、子供がケータイを所有する場合に、有害サイトへの接続を不可能にするフィルタリング機能の設定が半ば強制される制度設計がなされた。親たち概ねそれを歓迎して受け入れたが、それは色々と問題のあるサイトへの接近経験、接続経験を奇貨としつつ家庭などでケータイの使い方を教えてゆく機会を失わせた。

 こうした対応の結果、ケータイリテラシーの育成は大きく損なわれたといえる。子供たちは、低年齢のうちからケータイを与えられるようになっていたが、フィルタリングにより、経験を通じて学ぶ環境から疎外され、学校教育の欠落により、専門的指導者の下でケータイについて学ぶこと機会も失った。彼らは彼らにできる範囲でほそぼそとケータイリテラシーを自前で構築するしかなかったのだ。

 最近、悪ふざけをして問題になっている若者が、こうしてケータイに関するメディアリテラシー教育を受けられずにきた世代であることは注目すべきだろう。彼らが自助努力で築いてきたケータイリテラシーは、いわゆるガラケー経由でケータイ専用サイトを利用する局面に特化したものだった。ところが今や彼らは新しいスマホを手にし、彼らの周囲には新しいソーシャルメディアの世界が広がっている。大学生になって、あるいはアルバイトをするようになって、ケータイに対する管理からも逃れ、スマホとソーシャルメディアをどう使うか。彼らは無邪気に面白いことをして知人と共有してみようと思いつく。彼らにしてみればケータイで撮影したり、コメントつけて送ることには得意中の得意であり、技術的なハードルは低い。出来てしまうことを、やらずにいることは難しい。

共有欲に抗う倫理を

 ことほどさように、彼らを悪ふざけに誘っているのは写メが流行して以来培ってきた「共有したがる欲望」だ。この共有欲自体もまた

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