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芸術の評価について、いま進みつつあること

菘あつこ フリージャーナリスト

  今年を振り返って印象に残っているニュースの中で、私の仕事に近い分野のものを挙げるとすると「日展の不正問題」になるだろうか。私がふだん主に記事を書かせていただいている分野はバレエやダンスといった劇場芸術が中心なので、書や美術というわけではないが、友人知人には美術関係者も多く、今回のニュースに関連して、芸術の評価について語り合う機会も多くなった。

  あのニュースに触れて、私がふと気になったのは、一般の方があの報道に触れてどう感じられたのか?ということだった。「やっぱりなー」「さもありなん」……こんな感じの空気を感じたのは私だけではないだろう。  

 私自身、日々、舞台芸術作品の評を書くと同時に、いくつかの公的な賞等の審査に関わらせていただくなかで、芸術の評価というのはとても難しいと常々感じている。これがスポーツなら勝った負けたはルールの中でハッキリしている(それでも、オリンピック選考等になると、将来性等が絡んできて、一筋縄ではいかなかったりするようだけど)。

 だが芸術には、初めて観る人を含め誰が観ても、ということはほぼありえない。美術作品等なら、作者の死後価値が見いだされるといった例も少なくないのはご存じのとおり。ある人にとっては人生を変えるくらいの感銘を受ける作品であっても、別の人に取っては退屈というのはありうることで、それくらい個人個人で受け取り方が違うからこそ、芸術は面白い、興味深いものなのだとも言える。

  じゃあ、芸術の審査って何なんだ? 世の中の各賞は意味がないのではないかとか、公的助成を受ける先もいい加減に選ばれているのではないかということになりそうだが、これはそうでもないと私は思っている。少なくとも私が関わる劇場芸術の分野で、それなりの数その芸術を見続けている評論家や専門ジャーナリスト、その道を極めた人等の専門家が観ると、ほぼその芸術レベルに関する評価は一致する。それが40点から50点なのか、90点から98点なのかということは、ほぼ一致するのだ。

 もちろん、どれがトップかといったことになれば、それぞれの見解、感じ方によって違いが出る。また、現代アート、コンテンポラリーといった作品では評価に違いが出る場合が比較的多く、クラシック・バレエ等古典的な作品ではほぼ、少なくともレベルに関しては一致する。だから、雲を掴むようなことで決めているわけでは決してない。

 以前から、そういった専門家による芸術の評価がさまざまな賞や公的助成の場で求められて来たわけだが、その「芸術の評価」をもう一歩進めようとする動きが今、日本で始まっている。主に公的助成の場でのことで、「日本版アーツカウンシル」の登場だ。

 “アーツカウンシル”は、欧米各国や韓国、シンガポールなどに設置されている“政府や自治体から一定の距離を置く専門機関”。日本版アーツカウンシルを設置した日本芸術文化振興基金が特に参考にしているのは英国。英国のアーツカウンシルは、第2次世界大戦後間もない1946年に発足した。初代会長は、あの有名な経済学者ケインズだ。第2次大戦中、芸術が政治的に利用されたことに異をとなえて、政府から一定の距離を置く「アームズ・レンクスの法則」を提唱、その精神は今も引き継がれ活動している。

 アーツカウンシルの仕事は評価だけではないが、評価に絞って言うと、今のところ、日本では舞台を多く観て見識を磨いている舞台関係の評論家やジャーナリストは、まだまだ東京を中心とした関東圏在住者が多く、以前は、私の住む関西の舞台は、あまりそういった方々の目に触れる機会がなかった。東京で審査が行われる場合、書面でしか知り得ないこともあったのではないだろうか。けれど、それが一歩進んで、専門家が全国を見比べる、行けなくても現地の人間に調査を依頼する──等の方向に、一歩進みつつあるように見える。

 ちなみに、全国を網羅する芸術文化振興基金の他に、東京都に続いて、今年6月には大阪府・市もアーツカウンシルを設置。6月7日には、

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