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[10]羽生結弦にかかった「善意のプレッシャー」と、五輪がもたらすやるせなさ

青嶋ひろの フリーライター

 男子フリーの始まる前、アイスバーグに居合わせた人々は、なぜか羽生結弦のことをほとんど心配していなかった。

 「羽生の金メダル原稿、何を書いたらいいですかねえ?」

 とは、彼の優勝を確信している記者の、試合前のつぶやき。

 団体戦のショートプログラム、個人戦のショートプログラムと、あれだけ完璧な演技をオリンピックで2連発して見せたのだ。パトリック・チャン(カナダ)との点差が少ないとはいえ、このままの勢いで金メダル、取っちゃうだろう、と。そんな雰囲気が話をした人々の間にはあって、なぜだかでん! と腰を据えて、安心して彼の演技は楽しんでしまおう、という心持ちでいた。

 ここまで信頼できてしまう19歳。ここまで安心して見られてしまうオリンピック初陣というのは、なかなかないのではないだろうか。

 しかし彼が滑り始めて、想定内だった4回転サルコウだけでなく、トリプルフリップまで転倒してしまったとき……ああ、これはオリンピックだったんだ、とやっとこのことで気づき、冷水を浴びせられたような気持ちになった。

 まさかのトリプルフリップ転倒――今シーズンの彼には、一度もなかったミステイクだ。その他の細かなミスは最小限にとどめたが、前日の「パリの散歩道」に比べれば、フリーは長さがある分、やはり動きのひとつひとつに行き届かないところは多い。2度の転倒の後は不安がよぎるのだろう、ジャンプの助走もいつものような勢いがない。

 そして何より、彼がとても気に入っていて、演じ切りたかった「ロミオとジュリエット」のプログラム――彼自身もわかっているだろうが、まだまだ「一生懸命の表現」にとどまっていた。

 「僕の表現は、まだまだジャンプに助けられているんです。ジャンプを成功した勢いで、そのまま全力で滑りきる。その姿にみなさんが感情移入してくださる。僕らしい表現って、まだその範囲でしかないと思うんですよ」(2013年10月のコメント)

フリーの演技を終え、手を合わせる羽生結弦拡大フリーの演技を終え、手を合わせる羽生結弦
 彼自身がそうわかっている。だからこそ、4回転サルコウ以外のジャンプは完璧に決めたかっただろう。

 渾身の滑りが終わった後の、立ち上がれない姿。なんとも悔しそうな表情。憎らしいほど強いと思われた羽生結弦が、ついにオリンピックの魔物につかまった、その姿だった。

 そしてこの時の表情は、ソチに来て初めてみせた、普通の19歳らしい苦笑いだった。

 続いてキス&クライで見せた、「ごめんなさい」の仕草。

 どうしても、1992年アルベールビル五輪、「銀でごめんなさい」という言葉を残した伊藤みどりさんの姿がかぶってしまう。ああ、私たちはまた、自分のために戦っているはずのアスリートを、謝らせてしまったのか。

 今までの彼があまりにも強すぎて、こちらの方が忘れてしまっていたのだ。失敗しない選手なんて、いるわけがないことを。彼だってまだ19歳で、初めてのオリンピックで、金メダルなんて重すぎるんだ、ということを。ただその姿に期待だけを圧し掛からせて、転ばないはずのフリップを転ばせてしまったのは、私たちの声だったのではないか、と……。

 だから謝らないで、結弦君。銀メダルでも堂々と胸を張って、日本に帰ってきて――。

 と、ここまでが、パトリック・チャンの滑走前に考えていたことだ。 ・・・ログインして読む
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筆者

青嶋ひろの

青嶋ひろの(あおしま・ひろの) フリーライター

静岡県浜松市生まれ。2002年よりフィギュアスケートを取材。日本のトップ選手へのインタビュー集『フィギュアスケート日本女子 ファンブック』『フィギュアスケート日本男子 ファンブック Cutting Edge』を毎年刊行。著書に、『最強男子。 高橋大輔・織田信成・小塚崇彦 バンクーバー五輪フィギュアスケート男子日本代表リポート』(朝日新聞出版)、『浅田真央物語』『羽生結弦物語』(ともに角川つばさ文庫)、『フィギュアスケート男子3 最強日本、若き獅子たちの台頭 宇野昌磨・山本草太・田中刑事・日野龍樹・本田太一」(カドカワ・ミニッツブック、電子書店で配信)など。最新刊は、『百獣繚乱―フィギュアスケート日本男子―ソチからピョンチャンへ』(2015年12月16日発売、KADOKAWA)。

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