2014年02月19日
男子フリーの始まる前、アイスバーグに居合わせた人々は、なぜか羽生結弦のことをほとんど心配していなかった。
「羽生の金メダル原稿、何を書いたらいいですかねえ?」
とは、彼の優勝を確信している記者の、試合前のつぶやき。
団体戦のショートプログラム、個人戦のショートプログラムと、あれだけ完璧な演技をオリンピックで2連発して見せたのだ。パトリック・チャン(カナダ)との点差が少ないとはいえ、このままの勢いで金メダル、取っちゃうだろう、と。そんな雰囲気が話をした人々の間にはあって、なぜだかでん! と腰を据えて、安心して彼の演技は楽しんでしまおう、という心持ちでいた。
ここまで信頼できてしまう19歳。ここまで安心して見られてしまうオリンピック初陣というのは、なかなかないのではないだろうか。
しかし彼が滑り始めて、想定内だった4回転サルコウだけでなく、トリプルフリップまで転倒してしまったとき……ああ、これはオリンピックだったんだ、とやっとこのことで気づき、冷水を浴びせられたような気持ちになった。
まさかのトリプルフリップ転倒――今シーズンの彼には、一度もなかったミステイクだ。その他の細かなミスは最小限にとどめたが、前日の「パリの散歩道」に比べれば、フリーは長さがある分、やはり動きのひとつひとつに行き届かないところは多い。2度の転倒の後は不安がよぎるのだろう、ジャンプの助走もいつものような勢いがない。
そして何より、彼がとても気に入っていて、演じ切りたかった「ロミオとジュリエット」のプログラム――彼自身もわかっているだろうが、まだまだ「一生懸命の表現」にとどまっていた。
「僕の表現は、まだまだジャンプに助けられているんです。ジャンプを成功した勢いで、そのまま全力で滑りきる。その姿にみなさんが感情移入してくださる。僕らしい表現って、まだその範囲でしかないと思うんですよ」(2013年10月のコメント)
渾身の滑りが終わった後の、立ち上がれない姿。なんとも悔しそうな表情。憎らしいほど強いと思われた羽生結弦が、ついにオリンピックの魔物につかまった、その姿だった。
そしてこの時の表情は、ソチに来て初めてみせた、普通の19歳らしい苦笑いだった。
続いてキス&クライで見せた、「ごめんなさい」の仕草。
どうしても、1992年アルベールビル五輪、「銀でごめんなさい」という言葉を残した伊藤みどりさんの姿がかぶってしまう。ああ、私たちはまた、自分のために戦っているはずのアスリートを、謝らせてしまったのか。
今までの彼があまりにも強すぎて、こちらの方が忘れてしまっていたのだ。失敗しない選手なんて、いるわけがないことを。彼だってまだ19歳で、初めてのオリンピックで、金メダルなんて重すぎるんだ、ということを。ただその姿に期待だけを圧し掛からせて、転ばないはずのフリップを転ばせてしまったのは、私たちの声だったのではないか、と……。
だから謝らないで、結弦君。銀メダルでも堂々と胸を張って、日本に帰ってきて――。
と、ここまでが、パトリック・チャンの滑走前に考えていたことだ。
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