信頼と葛藤の日々
2014年02月20日
「正直、僕は怖いです」
3年半前の秋、新横浜にて。
浅田真央という世界チャンピオンにしてオリンピック銀メダリストを、新たに弟子として受け入れることになった頃の、佐藤信夫コーチの言葉である。
オリンピック経験は、自身の出場、指導者としての出場、合わせて10回を超える。夫人の久美子氏とともに数多の名選手を育て上げて、45年以上。この年、日本人指導者として初めて、世界フィギュアスケート殿堂入りも果たしたばかり。そんな泣く子も黙る名伯楽が、「怖い」という言葉をストレートに吐いたのだ。
そして当時の真央は、人々が思う以上に難しい状況にあった。少女から大人へと身体が変化し、それまで持っていたジャンプの勘所を一度すべて失ってしまい、バンクーバー五輪シーズン前半は絶不調。そこからほとんど根性とがむしゃらな練習量だけで五輪を乗り切り、銀メダリストに。
しかしジャンプもスケーティングも、根本から立て直さなければならない状態だ。世界チャンピオンでありながら、課題だらけ――おそらくコーチにとっては世界で一番やっかいな生徒だっただろう。
「でも、真央ちゃんを引き受けることで――私たち、また新しい経験をするチャンスを得たわけですよ」とは、当時の久美子氏の言葉。「この歳になって、ねえ。若いときならともかく、オーバーに言えばもう、命がけですよ。どうなることやら(笑)」
押しも押されもせぬ名コーチの地位を得て、なおこの人たちはここから挑戦をする、という。この歳になってまだ勉強ができる、それはとても幸せなことだ、と。
「うまくいくことばかりじゃない。失敗したら、そりゃあ私たちのダメージも大きいでしょう。でもそんなダメージを経験するチャンスだって、めったにないじゃないですか」(久美子氏)
実際ふたりは、浅田真央を教えることを、すでに楽しみ始めてもいた。
「チャンピオンなのに、知らないことがものすごく多いんですよ。それをひとつひとつ教えると、『へえ!』ってなもんです(笑)」(信夫氏)
「30分、40分……基礎のストローキングだけを教えても、文句も言わない。次の日に会えば、『今日は筋肉がパンパンです』なんて、嬉しそうに言う(笑)。僕らの話を受け入れるきもちが、ものすごく大きいんですね。とっても素直で、心が白紙。教える側としては、面白くもあるかな(笑)」
佐藤夫妻が真央と接し始めたばかりの頃――「挑戦したい」というふたりの爽やかな覚悟を聞き、これならこのチームは大丈夫かもしれない、などと思った。
「ただね、ここから3年はかかりますよ。いろいろなものを教えて、ものになるまでに。彼女じゃなかったら、もっとかかるかもしれない」(信夫氏)
じゃあ、ソチには間に合いますね、という軽々しいこちらの言葉に、名伯楽は苦笑いした。「そんなプレッシャーをかけないで下さいよ」とでもいうように。
そこから私たち報道陣は、試合のたびに佐藤コーチを追いかける日々が始まった。真央は現在の状況や心境を豊富に話してくれるタイプではない。事の真相を知るには、どうしてもコーチの話を聞かなければならないのだ。日々、彼女のスケーティングが変わっていく理由、あのジャンプを跳んだ理由……齢70のグレートコーチをつかまえ、すべてを聞きださなければならない。あまりにしつこく追いまわされる日々に辟易した信夫氏は、こんなふうに愚痴ったこともあった。
「記者の人ってのは、ほんとうにまあ(笑)、一試合一試合でジャンプはどうなったんだ、滑りはどうなんだって聞いてくる。そんなにすぐにいろいろ、試合ごとに変わるわけがないじゃないですか。もうちょっと長い目で、見てくれませんかねえ(笑)」
「先生、ごめんなさい。それでも私たちは性懲りもなく先生を追いかけますので、先生も元気に逃げてください……」
「じゃあ僕も、負けないように一生懸命逃げますよ(笑)」
そんなふうに、浅田真央取材の半分は、佐藤信夫取材という日々。そして報道陣が最も大挙して、最も執拗に彼を囲んで離さなかったのは、2011年の12月。真央の母、匡子さんが亡くなったばかりの、彼女自身のコメントがまったく取れなかった時期だ。「真央の代わりに」という要請に応じて話をした信夫氏の周りには、何十人もの記者が群れをなし、聞き耳を立てた。
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