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[18]浅田真央、「最高の演技」の真実(4)

滑るために生まれてきた存在

青嶋ひろの フリーライター

(承前)予想外という意味では、改めて「彼女の存在の特殊性」を考えさせられたフリーだった。

 フィギュアスケートはこうあるべき、成熟したアスリートはこうあれかし、という私たちの考えの範疇を、どうやら浅田真央は遙かに超えたところにいるようだ。

 何一つ作為のない、ナチュラルな存在感、無垢の魅力――フリーであんなものを見せられると、大人の挑戦、とか、成熟した表現、などというものを彼女に求めるのは、まったく筋違いかも知れない、と思ってしまう。

 「赤ちゃんって、何も考えていなくても、何もしてくれなくても、ただそこにいるだけで、みんなに愛されますよね。真央ちゃんって、それと同じなんじゃないかな」

 今回のフリーを隣で見ていた人は、そんなことを言った。

笑顔で会見する浅田真央=2014年2月25日、東京・有楽町の日本外国特派員協会笑顔で会見する浅田真央=2014年2月25日、東京・有楽町の日本外国特派員協会
 確かに浅田は、私たちの持っていない、本当の無垢さを保ち続けている人だ。本当の真央ちゃんはどんな子なのか? と聞かれるといつも答えるのだが、浅田真央本人と接していて嫌な思いをしたことが、私たちにはたぶん一度もない。

 明るく素直で、人に気を使うこともできるし、練習が不調であっても疲れていても、それを表に出して人に気を使わせることもない。

 ただ、日本のフィギュアスケート界は男女とも、豊かな言葉で自分を語れる選手が多く、インタビューをしやすい、記事を作りやすいなか、彼女はそこまで言葉で表現することが上手ではなく、インタビュアー泣かせ、という側面。それが少し、私たちを悩ませているだけだ。

 それはもう、取材する側の勝手な要求であって、自分を作らない、言葉で自分を作れないという一面もまた、彼女らしさなのだろう。

 ときどき驚くのは、企業が主催する記者会見や壮行会などを取材したとき。身もふたもない言い方をすれば、浅田真央の商品価値を当て込み、お金をかけて派手に演出された、そんなイベントだ。試合のストイックな雰囲気ばかりを取材していると、少し饐(す)えたような匂いをその場に感じ取ることもある。

 しかし豪奢な舞台装置のなかに、浅田が登場した瞬間、すべてが浄化されるように見えるのだから不思議だ。お金儲けの匂いとか、大人の事情とか、そんなものすべてが、ピンクのワンピースをまとった彼女がはにかみながら登壇した瞬間、消えていく……。そんな存在は、スポーツ界にも芸能界にも、浅田以外にないのではないだろうか。

 「フィギュアスケートもほかのスポーツと同じで、性格的に強い女の子が最後まで残りますよね。真央ちゃんみたいに、顔も可愛いけれど性格もそのままで、氷上でもほんわかした演技ができる選手って、珍しいですよ。真央ちゃんは選手としても人間としても、誰からも恨まれる隙がない。誰もが真央ちゃんとして、認める存在なんです」

 とは、浅田と同い年の男子スケーター、佐々木彰生の弁。

MaoMaoTシャツを着てMaoMaoTシャツを着て
 彼女の自分を作らない魅力は、時として演技として成熟していない、「表現」までたどりついていないもどかしさにもつながり、「もっと『見せる真央』を見たい!」などと思うこともある。

 しかし今シーズンの浅田真央、特に今回のフリーのように、自分を作らないことのピュアさが表現に直結してしまう様を目の当たりにすると、彼女はこれでいいのだ、と思わされてしまう。

 思えば浅田真央に関しては10年間、そんな原稿ばかり繰り返し書いてきたような気がする。

 「大人の真央ちゃんを見たい」「いや、彼女はこのままでいい」――いつもいつも、それを交互に書いてばかりだったな、と。

 今はやはり、私たちにはないイノセンス、無垢さ――そんなものをあの年齢まで奇跡的に残していること。そのことへの憧憬を、彼女に感じてしまう。

 「大人の表現を」と筆者も書いたし、「恋をして

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