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[28](番外編)オリンピックパークの町に住む(3)

いいオリンピックに感謝!

青嶋ひろの フリーライター

 様々なことがあるにはあったし、いちばんひどいことのいくつかは、とても人様にお話しできるものではない。が、レットイットビー、3週間もいればなるようになってくるものである。

 まず、ネット環境を確保した。宿のガレージでもついにつながらなくなり、街中をパソコンを持ってさまよい歩いたりもしたが、オリンピックパークの一角に、ロシアの電話会社がフリーWi-Fiを提供している一角があったのだ。最悪、ここに来ればなんとかなる。毎日試合後、ベンチに座ってプロトコルなどすべてのデータをダウンロードしてから、宿に帰るようになった。

 観戦後の人々が浮かれて帰路につく中、なんだか必死な様子でいる私をかわいそうに思ったのか、ウクライナ人の陽気なお姉さんが、金メダルチョコをくれた。

 「ハニュウががんばったんだから、あなたにもいいことあるわよ」

 しかしオリンピックパークは、遠い。もっと近くて、原稿がいつでも送れる場所を探さなければ……あった! 滞在5日目、宿から徒歩8分のホテルのカフェで、やっとフリーWi-Fiを拾ったのだ。その日からそのカフェは、私だけのプレスセンターになった。何やら毎日やってきては、お茶だけで何時間も居座り、目をむいてキーボードを叩いたりわあわあ電話で話したりしている東洋人を、店の人たちは何と思っただろうか。

 それでも英語のできるウエイターは、「日本から来たの? 僕はハルキ・ムラカミが好きなんだよ。『ノーヴェジアンウッド』『ダンス・ダンス・ダンス』、すばらしい……」などと話しかけてくれる。なんだかうれしくて、私もトルストイが好きだよ、と言いたい。でも絶対お兄さんがハルキ・ムラカミを語るほどには、トルストイを語れない……。

 そんなふうに、ソチの(正確に言えば、ソチ市アドラー。ここでは「ソチ」というと、オリンピックパークから電車で1時間かかる、ソチ市ソチ区のことを指す)人々は、たいていはフレンドリーで、親切だった。

 私の住んでいた一角は、元から住んでいる地元の人も、私のようにオリンピックのために滞在している人もごちゃまぜになって仲良く暮らしている雰囲気だ。開会式や閉会式、すぐそばで揚がっている花火は、大家さんも寄宿人もみんなで道路に出て、声を上げながら楽しんだ。誰かが「ロッシーア!」と叫び始めると、日本人もベラルーシ人も、みんなでいっしょにロシアコールをする。

 通い詰めた近所の食料品店では、おじさんが盛んにリプニツカヤの話をし、私は盛んに羽生結弦のことをその家の娘さんに教えた。彼らは英語が達者でないので、通訳はカザフスタンから来たというラジオDJがしてくれた。

 売店でも食堂でも宿でも、地元の人にはほとんど英語が通じないが、そこはボランティアや取材などで来ているロシア系の人々が、手助けしてくれる。何度教えても名前を憶えてくれない庭師のおじさんは、やがて私のことを「トウキョウ!」と呼ぶようになった。まあ、それもいい。食堂のおじさんには、「キョクシンカラテ」のことを教えてくれ、などと真剣に言われたが、何ひとつ教えられなくて申し訳なかった。

 日本から来たと言うとなぜかものすごく歓迎し、「あなたにはこっちのをあげるわ」と、店頭にまだ並んでいない揚げたてを包んでくれるピロシキ屋のおばあちゃんもいる。アナスタシアはWi-Fiが使えないお詫びにと、ロシアの甘いフルーツワインとチョコレートを差し入れてくれた。庭のミモザの黄色は日ごとに鮮やかさを増し、マダムが私たちの部屋にも小枝を飾ってくれた。

 そのうち男子や女子の試合が始まると、日本から友人や知り合いのスケートの先生などがやって来て、街はにぎやかになる。友人からの救援物資、どうしてもこの町では見つからない爪切りが、オリンピックパークのセキュリティチェックで没収されたのは悲しかったが、私のためにわざわざ持ってきてくれただけでもう、うれしかった。女子の期間中、部屋に泊まりに来た友人が作ってくれたきつねそばのおいしさは、一生忘れない。

 そういえばご飯に関しては、この町はほんとうに豊かで、食事のおいしさに何度救われたかわからない。

 数回だけ行ったレストランの食事はふつうで、取り立てておいしいとは思わなかったのだが、見逃してはならないのは、町のあちこちにある簡易食堂。ここのお惣菜が、素晴らしいクオリティなのだ! 

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