2014年04月04日
「鈍感力」という言葉があるが、その強みをいかんなく証明して見せたのがNHK会長の籾井勝人氏だ。
自らの発言が批判され、国際問題になっても「私は大変な失言をしたのでしょうか?」などとうそぶく。NHKの内と外で「辞任が当然」という声が高まり、視聴者からの抗議メールが殺到しても馬耳東風だ。国会質疑での表情を見ていると、平然としているどころか、注目を集めることをむしろ楽しんでいる節まで見てとれる。
今年1月末の就任会見での「従軍慰安婦」をめぐる「個人的見解」が社会問題になって以来、テレビの評論家が集まれば「さすがに辞めざるをえないだろう」などと話題にしてきた。
会長を任命した経営委員会も、その背後にいる安倍政権も、公共放送のトップが「個人的見解」を披露しても良い場面と悪い場面をわきまえない籾井氏の「社会性のなさ」に匙を投げ、いずれ見放すだろうという見方も強かった。
しかし、安倍政権は籾井氏を見放さなかった。「問題はない」としてかばい続けた。国会のNHK予算の審議でも籾井氏は責任を追及されたものの、野党議員の決め手に欠く追及にも助けられ、圧倒的な与党多数のなか逃げ切った。全会一致が続いていたNHK予算の承認で複数の野党が反対する異例の事態ではあった。だが、結果として予算は承認された。
こうなると籾井会長の責任が追及される機会はしばらくやってこない。最近は評論家が集まっても「このまま辞めないでしばらく籾井体制が続くのだろう」と諦めムードだ。
しぶとい二枚腰だ。
会長辞任を求める世論がもっと高まれば、安倍政権が籾井氏を見限って首をすげ替えるという選択肢もあっただろう。だが、結果的にそうならなかった。どうしてだろうか。
背景を考えると、以下のことが考えられる。
ひとつは、籾井氏が就任会見で放った発言を支持する人たちが一定の割合で存在することだ。
公共放送機関のトップとして、就任会見という場で「個人的意見」をあけすけに語ったらどうなるか思い及ばない想像力の乏しさ。「取り消します」と言えば、それまで語ったことがリセットされると考えるような常識のなさ。個人としての歴史認識の是非はさておき、日本を代表する公共放送のトップの発言が国内外でどれほどの重みを持つかを理解できない国際感覚のなさ。それを「共有」してしまっている人たちが今の日本には相当数いる。
「理性的な議論」が通じない。国際社会のなかで、偏狭な、
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