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「鬼畜の所業」でさえあるドキュメンタリーが「表現行為」であるためには?

森 達也 映画監督・作家

 栗田路子の告発「取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶」を読んだとき、まずは相当に頭が血に上った。いや頭に血が上った。こうして言い間違えるほどに腹が立った。そして恥ずかしかった。

 恥ずかしいと感じた理由は、最近はすっかり縁がないとはいえ、僕もかつてはテレビで報道やドキュメンタリーの仕事をしていたし、今も完全にディレクターを引退したつもりはないからだ。つまり告発されている彼らとは同族だ。決して他人事ではない。

 腹が立った理由については、あらためてここに書くまでもないだろう。あの告発を読んだならば10人中10人が、どうしようもないほどに腹が立ったはずだ。

 特に以下の記述については、かつてこの番組を観た人も観ていない人も、読みながら絶句するほどに怒りや嘆息が込み上げてきたのではないかと思う(まさしく僕もそうだった)。

 カメラは『死の影に怯える悲壮な少年と家族』を描こうと必死だった。サッカー選手になりたいという将来の夢を語らせておいて、「でも、君に未来はないよね」と声をかける。それでも涙を見せないミヒル君を、とうとう祖父の墓まで連れて行き「もうすぐ、君もここに入るんだね、大好きなおじいちゃんに会えるね」とたたみかける。
 ミヒル君はこう回想する。「ぼくの目に涙が出てきたら、彼らはズームアップして撮った。その顔を後で見たけれど、それは僕の顔じゃなかった」と。

 ……とここまで書いてから、ちょっと待てよと思わずつぶやいた。もう一度栗田の文章を最初から最後まで読み返す。……うーむ。これは困った。でも書かねばならない。とても微妙ではあるけれど、絶対に譲れない一線だ。

 栗田が挙げたこれらの手法は、ドキュメンタリーの演出として、まったく問題はない。

 時おりドキュメンタリーは化学実験に似ていると思うことがある。フラスコの中に被写体(人とは限らない)を入れる。下から熱する。あるいは冷やす。あるいは多種多様な化学物質を入れる。触媒を足す。攪拌する。遠心分離器にかける。ガンマ線を当てる。

 こうした刺戟を加えることで、被写体がどのように変化するかを観察(撮影)する。この刺激がドキュメンタリーの演出だ。時には挑発する。時には誘導する。違う場に誘い込む。後ろから背中を押す。時には先回りして追いつめる。

 あるがままを撮っても作品にはならないし、あるがままを撮ることなど実質的には不可能だ。広辞苑ではドキュメンタリーは「虚構を用いずに、実際の記録に基づいて作ったもの。記録文学・記録映画の類。実録。」と規定されているが、これにうなずく現場制作者は一人もいないだろう。

森達也、映像ジャーナリスト綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治が、震災発生15日後から被災地に入りビデオをまわしたドキュメンタリー映画「311」拡大森達也さんをはじめ映像ジャーナリスト、映画監督たちで東日本大震災の被災地に入り撮影した映画『311』。ドキュメンタリーは現実を撮影するが、あるがままを撮っても作品にはならない
 なぜならカメラは必ず現実に干渉する。被写体に影響を与える。現実を撮ったなどと気軽に口にする人がいるけれど、それはあくまでもカメラや撮影者の存在によって変容した現実だ。

 観察することで素粒子は振舞いを変えるとするハイゼンベルグの定理(正確には観察者効果)は、ドキュメンタリーにおいても重要な原則だ。影響を与えない撮り方なら盗み撮りや群衆シーンがあるが、それは言ってみれば監視カメラの映像であって、あくまでも作品を構成するカット群の中の一要素でしかない。作品とは別物だ。

 時には撮影者や監督自らがフラスコの中に入ることもある。そして変化する被写体に自らが刺激を受ける。その変化がまた新たな刺激となる。こうして撮影する側の作為と撮影される側の反応や作為が縦糸と横糸になって、ドキュメンタリーというタペストリーは紡がれる。

 繰り返すが、それはありのままの現実などでは断じてない。現実の破片を要素に撮る側が再構成した世界観の表明だ。そもそも作為のない作品など論理矛盾だ。そこに作為がないのなら、編集はワンカットもできない。

 補足するが、「時おりドキュメンタリーは」から「ワンカットもできない」までの記述は、少し前にドキュメンタリーのやらせについて書いた自分の文章のほぼコピペだ。今もこれを修正するつもりはまったくない。

 ドキュメンタリーは時として人を傷つける。鬼畜の所業だと思うことがある。少なくとも穏やかな人格者には撮れない。監督やディレクターがエゴイスティックでファナティックであればあるほど、作品は面白くなる。

 そして僕のこの定義に従えば、サッカー選手になりたいという将来の夢を語らせてから、「でも、君に未来はないよね」と声をかけることや、祖父の墓まで連れて行って「もうすぐ、君もここに入るんだね、大好きなおじいちゃんに会えるね」とたたみかけることに、手法としては何の問題もない。

 これはドキュメンタリーだけではなく、ジャーナリズムの領域を想定すればもっとわかりやすい。

 疑惑の政治家にインタビューを申し込む。聞きたいことはひとつだが、いきなりその質問をすれば警戒される。だから答えを誘導する。あるいは答えねばならない状況に追い込む。インタビューの場所を設定する。嘘をつけない状況に追い込む。怒らせる。泣かせる。手法としては何の問題もない。

 でも栗田の記述を読みながら、これ以上ないほどに腹が立ち、不快な思いをしたことも事実だ。理由は二つある。 ・・・ログインして読む
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筆者

森 達也

森 達也(もり・たつや) 映画監督・作家

1956年生まれ。映画監督・作家。明治大学特任教授。ドキュメンタリー作品に『A』『A2』など。著書に『クラウド――増殖する悪意』(dZERO)、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』(ダイヤモンド社)など多数。