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記事の自動生成に見る「人間記者」の価値

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

 さる6月、米国のニュース報道配信会社のAP通信が、今月から企業各社の決算発表記事を自動的に作成する技術を導入すると発表した。APでは四半期ごとに平均約300本の決算発表記事を作成・配信しているが、今後は自動記事執筆技術と企業データベース(対象は米国企業のみ)を活用しながら150~300単語数の短い記事を自動的に作成し、1四半期に最大で4400本程度の記事を配信していくという。APでは記者らの時間や労力をより高付加価値なジャーナリスト本来の仕事に振り向けるためで、人員整理などは予定していないと説明している。こうした動きは経済誌出版社Forbesでも取り組まれており、限定的な使い方ながら進んでいくものと思われる。

 こうした報道を聞くとすぐに「ロボットの時代」「記者なんて職業は不要」という話が出てくる。米国の就職仲介会社CarrercCast社は、「2014年版・絶滅が危惧される職種」として新聞記者を取り上げており、新聞購読者の減少や広告収入の落ち込み、オンラインニュースの台頭、が原因となって平均年収は現状400万円弱、2022年までに米国での新聞記者の採用が13%減になると予想している。どうもネットでつぶやく人たちを中心に、古い職業は破壊されてほしい願望が強く、しかしそれに代わって機械に何ができて人間に何ができるのかについて考える能力が弱いようだ。

 おそらく私たちが生きている限り、機械が取材できるのは、相手が人間でない場合だけだ。取材する側も人の子、される側も人の子で、非公開の情報を機械にだけ打ち明ける「ドラえもん」の時代はもう少し先のことだろう。逆に言えば、機械が取材できるのが人間でなく書面であれば、機械記者は自動記事を作れる。大量の情報を読み込み、要約する力はすでに機械にもある。決算報道発表資料のように所定フォーマットが認識できればなおさらだ。人間記者は、人間の気持ちから紡ぎだす取材に集中すればよい。

 一方、人間でも見つけられない情報を機械が探し出してくるのも、

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