2014年10月23日
高橋大輔を高橋大輔として初めて認識したのは、いつだっただろうか。
たぶん、2005年6月の日本代表エキシビション、ドリーム・オン・アイス。
漆黒の衣装でその年のショートプログラム、「ロクサーヌのタンゴ」を初披露した、そのとき。この人がこの世でたったひとり、スケーターでもなく、アスリートでもなく、「高橋大輔だ!」と気づいた瞬間だったのだと思う。
それまでももちろん、若手男子では一番の成長株として、一身に注目を浴びてはいた。
「あの子、すっごく踊れるね」「ジャンプもいいね」「あとは度胸がつけばなあ」と、常に話題の的ではあった。
「大ちゃんのステップに、刺激うけちゃったよ!」と、同世代や少し下の男の子たちの目の色を変えさせてもいた。
でもそれも、スケート界の輪の中、フィギュアスケートの好きなファンたちの間での話題でしかなかったのだ。
それが、トリノ五輪を前にしたシーズンの、初夏。
そのときの「ロクサーヌ」は、「素敵なスケート」「達者な滑り」という枠を、力技で叩き潰すような演技だった。「もう、どうしたらいいの……」。見ていた女性が上気した顔で漏らした声も、スケーターを見て、スケートのプログラムを見て、出てくる声ではなかった。
この人は、違う。フィギュアスケートというカテゴリのなかに、小さな一スポーツのなかに、収まる人ではない。やがてスケートなんか見たこともない人、スケートなんて大嫌いな人にだって、高橋大輔の滑りは届く。
そんな唯一無二の存在に彼がなったのが、あるいは自分がそうであると初めて人々に気づかせたのが、05年6月のドリーム・オン・アイスだったのだと思う。いつかこの人は、見たこともないものを見る喜びを、世界中の人に味わわせてしまうだろう、と。
初めてそのプログラムの断片を目にしたのは、07年10月の日米対抗戦。前日に公開された公式練習にて、ほんの数フレーズだけ、あの「ヒップホップ・スワン」のステップを滑って見せたのだ。
「なに、あれ!?」
新横浜のスケートリンクで、そのとき自分がいた場所も、高橋が滑っていた場所も、リンク内の位置関係も距離も、そんなものすべてが、今でもまざまざと思い出せる。少しだけ見せたところで彼の練習時間が終わってしまったので、見ていた記者が大挙してマネージャーに詰め寄ったことも覚えている。
「いったいなんなんですか、あれは!」
フィギュアスケートで、氷の上で、2分40秒のプログラムの中で、あんなものを見せられるのか――幾十年かこのスポーツを見てきたけれど、その驚きを最も大きく味わったのが、この瞬間だった。
その年のショートプログラム、ヒップホップバージョン「白鳥の湖」。プログラムの世界に入り込んでしまった高橋のどの動きも、どの一瞬も、その欠片さえも見逃したくない、と思った。
試合で見られる回数など、限られている。ならばすべての公式練習にどんなに朝早くでも出かけて、すべての「スワン」を見逃すまい、とした。そこまで追いかけずにはいられない、麻薬のようなプログラムだったのだ。
高橋大輔は、文句なく最高のスケーターだった。でもケガがあり、コーチとの決裂があり、本番でのほんの少しの狂いがあり、なかなか世界の頂点にたどりつかなかった数年を経て。忘れられないのは、彼がほんとうに世界一になった瞬間。2010年、トリノの世界選手権だ。
彼の持つ男の哀しさ、突き抜けるような朗らかさ、天性のチャーミングさでもって、この舞台に立てる喜び、スケートを滑る喜び、ひいては生きることの素晴らしさ、そのすべて描き切った「道」。
お祭り騒ぎのオリンピックが終わり、フィギュアスケートを愛する人々が再び集って、その誕生を見守った2010年の世界選手権で、チャンピオンに。彼が初めてその座にたどり着いた時、日本人だけでなく世界中の人々が大喜びしてくれたのがうれしかった。
「やったね! ほんとうにチャンピオンにふさわしい男が、フィギュアスケートのほんとうのチャンピオンになった!」
青い目のカメラマンがそう言って我々に握手を求めてきた。
「大ちゃんの『君が代』。聞きに行こう!」
いつもならばバックステージの取材に駆けまわっている表彰式も、初めてちゃんとこの目で見たくて、スタンドに駆け付けた。かけがえのない誇らしい瞬間を、高橋大輔は私たちにくれたのだ。
そして2013年、全日本選手権。あの日のフリー「ビートルズ・メドレー」こそ、ほんとうの高橋大輔の姿だったのだと思う。
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