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狭山事件、無実訴え半世紀 市民ら再審求める

差別の実態を理解しようとしなかった裁判官は、差別の恐ろしさを理解できなかった

鎌田慧 ルポライター

 10月31日、「狭山事件」の再審を求める市民集会が、日比谷野外音楽堂で開かれ、約3000人が集まった。銀座を通り抜けて東京駅にむかうパレードで、石川一雄(75歳)さんの無実を訴えた。

                                  AJWフォーラム英語版論文

 ちょうど40年前のこの日、東京高裁は、埼玉県狭山市で1963年5月に発生した女子高校生殺人事件の被告人、石川さんに対して、一審の死刑判決を減刑し、無期懲役の判決をだした。

集会に参加した(左から)石川一雄さん、袴田巌さん、ひで子さん=2014年5月23日、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂 集会に参加した(左から)石川一雄さん、袴田巌さん、ひで子さん=2014年5月23日、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂

 弁護団をふくめ支援者は、無罪判決を確信していたため、その日は「憤激の日」となっていた。この判決は弁護団の批判を無視したものとして記憶され、この日が判決撤回運動の原点となっている。

 事件発生からすでに51年半たった。31年半の獄中生活のあと、石川さんは94年12月に仮釈放されたが、いまも再審裁判をもとめて全国で訴え続けている。月に2度ほど、妻の早智子(さちこ)さんとふたり、東京高裁前に立って「ぼくは無実だ。裁判をやり直して欲しい」と要請している。

 51年間、無念の想(おも)いで無実を訴えているのだが、日本の裁判所は、弁護団があらたに提出した証拠にもとづいて、その主張を聞いてみようと決断していない。

 今年3月には静岡県で発生した一家4人殺しの「袴田(はかまだ)事件」の袴田巌(いわお)さんの再審が、静岡地裁で決定された。異例にも、裁判長は「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」といって、拘禁性精神障害に苦しんでいた確定死刑囚の袴田さんを、ただちに釈放させた。48年ぶりの釈放だった。

 日本の再審裁判は、「開かずの扉」あるいは「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」といわれていた。そうしたなか1980年代になり、裁判所は、4大冤罪(えんざい)死刑事件とも言われた「免田事件」「財田川(さいたがわ)事件」「松山事件」「島田事件」で4人の確定死刑囚の再審を認め、ずさんな取り調べを批判、無罪判決を出して被告人を釈放した。

 そして最近にいたって、幼児殺しの「足利事件」、強盗殺人の「布川(ふかわ)事件」などで、無罪判決がだされ、今年に入って袴田さんが釈放されたのである。

死刑廃止論は少数派

 日本では死刑制度が厳然と維持され、廃止論は少数である。年に十数人の処刑(絞首刑)が実施され、厳罰化もすすんでいる。

 以前なら15年程度で仮釈放されるとも言われていた無期懲役囚も、長期拘留となり終身刑化している。朝日新聞によると、昨年1年間で釈放された無期懲役囚は8人だけ。この人たちの刑務所在所期間は、平均31年2カ月。20年前に比べると、13年も延びている。刑務所内で死亡した無期懲役者は14人で、5年連続で2桁となった。

 狭山事件で石川さんが逮捕された背景には、日本における根強い部落差別の問題があった。

 犯人とされた石川さんは、事件発生のとき、狭山市の被差別部落に住んでいた。彼のアリバイは証明されなかった。

 脅迫状が、殺害された被害者宅に届けられ、それに応じて、身代金が容疑者に手渡されるようとする際に犯人の取り逃がしがあったのだが、このとき、石川さんは自宅にいた。

 社会的に差別されている家族の証言など、聞き入れられなかった。見込み捜査も差別されていた地域の若者たちが対象だった。

 差別によって仕事もなく貧しく、教育を受ける機会のなかった若者が、文章を駆使した脅迫状でカネを取ろうとすることなど、思いつきもしないし、できもしない。いまなお、事件に結びつく証拠はない。

 その差別の実態を理解しようとしなかった裁判官は、差別の恐ろしさを理解できなかった。

本論考はAJWフォーラムより転載しています