「ほんとうの姿は、こんなものではない」
2014年12月26日
最初の熱狂から、約7時間後。
バルセロナ国際コンベンションセンター――フィギュアスケートの大きな試合が開かれるのは初めて、とは思えないほど、このスポーツの色に染まり切った会場に、2度目の熱狂は訪れる。
羽生結弦のフリー本番、「オペラ座の怪人」。
ただの滑るだけのパート――フォアもバックもしっかりスケートに気持ちが寄り添っている。
最後のルッツの失敗――もうこうなってしまっては、たった一つの最後の転倒さえ、このプログラムをドラマチックなものに見せるピースのようにさえ見えてくる――までは、美しいジャンプの機械のような危なげなさに、恐怖さえ感じたほどだ。
「身体を存分に使い切れる幸せ」――このフリーで感じた思いを、羽生本人は、そう表現したが、あの身体の状態でここまでのものを見せてくれるとは、ほんとうにたいした男だ。
やはりこの人は、ただものではない。
実はジャンプなどのエレメンツはともかく、演技、トランジション、スケーティングなどプログラム構成点での高い評価には、異論を唱える国際ジャッジもいた。
「会場は盛り上がっていたけれど、プログラムはこのレベルの点数が出るクオリティでは、まだまだなかったですね。滑りの技術も、演者としての存在の大きさも、先に滑ったハビエル・フェルナンデスの方がずっと大きかったと思いますよ」
確かに四肢の動きのコントロール力などは、フェルナンデスや町田樹に比べれば、未熟なのかもしれない。
でも技術の未熟・成熟と、魅せる・魅せない、あるいは見る人を動かす・動かさない。これはまた別のものなのだということがよくわかるプログラムでもあった。
羽生結弦は、自らこのミュージカル曲を選んだという。たぶん音楽と親和性の高い彼は、この曲が自分にとって「得意な曲」なのだということを、わかっていたのだろう。
まだ20歳。未だ熟していない様々な部分さえ魅力的に見せてしまう、ストーリーと音楽。それを彼は巧く選び取ったのだと思う。
上海での負傷、大阪でのどん底、そしてバルセロナでの復活という、今季3戦。
どの試合も羽生結弦は少し点数が出すぎている、五輪チャンピオンの肩書でハイスコアを得ているという意見
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