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世界記憶遺産が投げかけた「酸性紙」への課題

筑豊の炭鉱を描いた山本作兵衛の記録画や雑記帳、日記

大矢雅弘 ライター

山本作兵衛の水彩画「寝掘り」(C)Yamamoto Family、田川市石炭・歴史博物館所蔵山本作兵衛の水彩画「寝掘り」(C)Yamamoto Family、田川市石炭・歴史博物館所蔵
 国内で初めて国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された福岡県筑豊地方の炭坑絵師、山本作兵衛(1892~1984)の作品と資料について、保存や修復作業などを紹介する「1095日の軌跡」展(朝日新聞社など後援)が4月19日まで福岡県太宰府市の九州国立博物館で開かれた。作兵衛の作品や資料には長期的保存が難しい「酸性紙」というやっかいものが使われており、近現代の紙に書かれた文化財の保存の困難さや課題が浮き彫りになった。

 記憶遺産に登録されたのは、明治時代中期から1955年ごろまでの筑豊の炭鉱の様子を精緻な筆致で描いた記録画や雑記帳、日記など計697点。このうち、627点を所蔵する田川市石炭・歴史博物館が2012年度から3年かけて保存修復作業を実施した。

  作業はNPO法人文化財保存支援機構(本部・東京)に委託し、627点すべてを九州国立博物館に移し、資料の一つひとつの状態を丹念に調査し、カルテ化した。

 今回の作業を担った、田川市石炭・歴史博物館で保存科学を担当する中村麻里学芸員によると、水彩絵の具や墨などで描かれた作兵衛の記録画は紙自体の劣化が進んでいると思われるものの、きれいな状態だったという。「引き出しに入れて、ほどんど公開をしなかったのが良かったのではないか」と中村さん。

 一方、雑記帳や日記などの資料は予想通り、酸性紙特有の劣化がみられた。加えて、書かれた文字がブルーブラックのインクだったという問題もあった。このインクはもともと西洋で、文書を改ざんされないために権利書などに使われたそうで、万年筆のインクがどんどん酸化して紙を溶かす「インク焼け」を起こす。それがひどくなると、文字の形に穴があくという。つまり、作兵衛の記録資料類は酸性紙の劣化とインク焼けが一緒に起きている問題を抱えていた。

 当初は酸を中和するガスを吹きつける脱酸性化処理法で、紙の寿命を延ばすことが検討された。ところが、この方法を採用すると、文化財の修復に使われる小麦でんぷんのりという接着剤が黒っぽく変色することがわかった。将来、だれかが小麦でんぷんのりを使って修復したいと思っても、それができないという足かせになってしまう。

 中村さんによると、文化財の修復は基本的に、「可逆性」をもった処置をするのが原則になっている。取り除く必要が生じた場合に、取り除けるような修復をする必要があるのだ。なにか別の修復手法が登場した時に、小麦でんぷんのりであれば、水をちょっと湿らせることで取り除くことができる。ところが、脱酸性化処理をしてしまうと、その後で小麦でんぷんのりを使った修復作業はできず、可逆性が保てないことになる。

 その過程で「どう対応すべきか」という議論になり、結論を出すまでに最も時間がかかったという。

  文化財保存支援機構副理事長の大林賢太郎・京都造形芸術大教授によると、修復の分野では、紙の補強方法などについての研究成果が学会などで次々と発表されている。ただ、文化財の修復を考えたとき、「最先端の研究として、それがうまくいっているとしても、それをいきなり採用するわけにはいかない」という。

 文化財の世界では、最先端の修復手法をめぐっては過去にも事件があって、それがトラウマになっている面があるらしい。大林教授は一例として、昭和30~40年代に盛んに使われた水溶性の接着剤の事例を挙げた。当時は「これは剝落(はくらく)止めなどに万能だ」といわれて、誰もがこぞって使い、全国のありとあらゆる障壁画や壁画などに使われたという。

 ところが、その後、その接着剤は経年劣化すると、水に溶けなくなることがわかったというのだ。水溶性の接着剤の問題をめぐっては、解決方法がようやく発見され、これからどのように実用化していくかとのめどがついた段階だという。

 大林教授によると、今回、問題になっているインク焼けの対策についても、広がらないようにする処置方法がある。ところが、これについても、酸性紙の処置と同時に行われる処置になる。酸性紙とインク焼けという複数の問題が組み合わさった場合、解決策としての処置がどのような反応を引き起こすかわからないところがある。

 そこで、「将来は新しい技術も開発されるかもしれないし、もっと適した方法も検討できる。劣化が進まない条件さえ整えれば、十分に時間は稼げる」と判断して、今回は脱酸性化技術の採用を見送ったという。

 その結果、作兵衛の日記や雑記帳は、間紙(あいし)という中性紙をページごとにはさみ込み

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