増島みどり(ますじま・みどり) スポーツライター
1961年生まれ。学習院大卒。84年、日刊スポーツ新聞に入社、アマチュアスポーツ、プロ野球・巨人、サッカーなどを担当し、97年からフリー。88年のソウルを皮切りに夏季、冬季の五輪やサッカーW杯、各競技の世界選手権を現地で取材。98年W杯フランス大会に出場した代表選手のインタビューをまとめた『6月の軌跡』(ミズノスポーツライター賞)、中田英寿のドキュメント『In his Times』、近著の『ゆだねて束ねる――ザッケローニの仕事』など著書多数。
澤穂希ら17人が前回優勝を知る熟成チーム、海外クラブ経験者も12人
5月1日、女子ワールドカップカナダ大会の代表発表が行われたJFAハウス(日本サッカー協会、東京都文京区)には、代表23人の名前を読み上げる佐々木則夫監督の声だけがマイク越しに響いていた。
「ミッドフィルダー・・・」
GK、DFに続くポジションの読み上げに入り、会見場の緊張感が一層増す。直後、「10番 澤穂希」と呼ばれると記者席から「おー、入った」と声が漏れた。ちょうど1年前のアジアカップ以来、代表から遠ざかったマイナス要因、一方で、勝負の年を迎えた今季は心身とも充実したパフォーマンスをリーグ戦で発揮するプラス要因両方を、監督がどう評価するのか、36歳の選出に大きな注目が集まった。
W杯初選出は1995年、まだ正式名称を「女子世界選手権」としていた時代(スウェーデン大会)から通算6度目で、もし出場が実現すれば男女通じて世界初の6大会連続出場を果たすことになる。20年もの間、常に存続の危機がかかっていた女子サッカーの重責を背負い、代表で積み重ねた国際Aマッチ数197試合、82得点をどう表現すれば、その偉大さを伝えられるだろう。
Jリーグが開幕した1993年、サッカー新時代のスタートを切った男子にまばゆいばかりのスポットライトが注がれていた頃、15歳の少女もまた新しい時代へ力強い一歩を踏み出していた。もっとも、こちらのデビューにライトは全く当たっていなかったのだが。
93年12月のアジア女子選手権(マレーシア)で、交代で入った15歳はいきなり4点を奪い鮮烈の国際マッチ初出場を飾った。その1年半後のW杯スウェーデン大会について振り返る。
「あの頃の私にあったのは
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