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起訴相当を出せることが刑事司法改革のポイント

検察審査会の存在意義と原発事故の責任、有罪率99.9%は真犯人取り逃がしを意味

河合幹雄 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

 福島第1原発事故の刑事責任をめぐり、東京第5検察審査会は7月31日、業務上過失致死傷罪で告発された勝俣恒久元会長(75)、武藤栄(65)と武黒一郎(69)の両元副社長について起訴相当を議決したことを発表した。これにより3人は強制起訴される。強制起訴とは、司法制度改革の一環で2009年5月に導入された制度で、検察官の不起訴処分に対し、11人の市民からなる検察審査会が、「起訴すべきだ」と2度にわたって議決した場合に発動される。

屋根パネルが外された東京電力福島第一原発1号機=2015年7月28日、福島県大熊町屋根パネルが外された東京電力福島第一原発1号機=2015年7月28日、福島県大熊町
 経緯を振り返れば、「福島原発告訴団」が2012年6月、東電や政府の関係者ら計42人について「津波対策を怠った」として業務上過失致死傷罪などで告発。2013年9月、東京地検は、「予見は困難で、刑事責任は問えない」として全員を不起訴とした。検察審査会は、2014年7月、上記3人について起訴相当を議決したが、東京地検は再び不起訴にし、検察審査会が改めて審査していた。

 多数の重要な論点がある事件だが、本稿では、検察審査会の存在意義を中心に検討し、最後に、原発と司法の問題に触れたい。

 2009年の司法改革は、国際的なスタンダードに合わせた法治国家になるという大方針のもと、市民参加についても世界標準にすることが目標とされた。これは、わかりやすく言えば、それまでの刑事司法を世界標準からみておかしいところを改めることを意味する。ところが、司法改革をめぐって、刑事司法の問題点を解消するための改革ではないということが「定説」であるかのように言われてきた。確かに、冤罪は少ないし、量刑もほぼ妥当、治安は非常に良く、他の先進国と比較すれば、いくら褒めすぎても褒めすぎないという一面もあることは、そのとおりであろう。

 しかし、世界標準ということで言えば、文句なしにおかしいことがある。それは、刑事第一審の有罪率が99.9%を超えているということでる。これは、裁判官ではなく、検察官が有罪無罪の判断をしていることを意味し、もはや裁判と呼べないほどの歪みである。ここを変えなければ話にならない。そのことを銘記して検討を進めたい。

 有罪率が99.9%であることの責任の一端は裁判官にもあるのだが、日本の識者の批判対象は、検察と警察に集中してきた。そしてその文脈は、常に国家権力の過剰な行使に対する批判であった。確かに、歴史を振り返れば、その視点の重要性を認めるほかないが、議論としては抜け落ちていることがある。有罪率99.9%の意味するところは、有罪の可能性が5割はおろか8割の事件も起訴していないことである。また、警察も、捜査が困難な殺人事件を、事故死扱いするなど、重大な真犯人を取り逃がしている可能性がある。重大事件の真犯人を捕えて起訴することこそ、警察と検察の本分である。これこそ、一般市民の第一義的な要求であろう。

 市民の司法への参加と言えば、裁判員制度であり、そこにおいて無罪判決を出してこそ存在価値があるわけだが、実は、無罪判決が妥当である事件は極めて少数である。有罪率99.9%という病理的状況を抜け出すには、検察が、より多くの事件を起訴するしかない。それを強制できるのが検察審査会の起訴相当議決である。このように見てくると、検察審査会が起訴相当を出せることこそが、刑事司法の改革ができるかどうかの最重要ポイントということになる。

 検察審査会の11人中8人が賛同しないと起訴相当とならず、不起訴不当にとどまって強制力がなくなってしまうという高いハードルがかせられているせいもあって、そこを超えたのは、まだ9件目である。判決結果は、ほとんど無罪判決であるが、無罪率を上げたいのであるから、それはそれでよいわけである。実際、有罪事例がでており、本来の目的である強制起訴によって有罪にできるケースが増えるということがなされる可能性を示している。したがって、検察審査会の存在価値は、起訴相当の議決を出すことにあると言ってよい。

 一般論はここまでにして、原発事故について検討しよう。刑事法学者は、今回の事故に関して「予見ができたことの証明」「対策をとることができたのに放棄したことの証明」などが困難であり、有罪にすることは極めてむずかしいと考えている。刑事法の枠組みに当てはめればそのとおりであるが、これこそ言葉は悪いは「専門バカ」の典型

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