やさしい言葉を使って、最も深い地層の下を流れる地下水について語ることができる人
2016年02月02日
難しい言葉ではなく、やさしい言葉を使って、最も深い地層の下を流れる地下水について語ることができる人を哲学者と呼ぶなら、鶴見俊輔さんは日本を代表する哲学者。そういう人を思想家と呼ぶなら、鶴見さんは、その任を受けて立つことを覚悟した思想家。
人間の職業は数え切れないくらいある。それぞれの職業はそれぞれに特殊。一つの文章が、限られた特殊の職業者に響くことはあっても、多くの職業者に同時に届き、その人たちの心を共振させる、ということは起こりにくい。鶴見さんの文章は、もちろん、時に本格的に難解で、専門家集団に投げられるものもあるが、異業種、あるいは職無しの人の心に分かりやすく入ってきて、文章のこくのようなものが、忘れ難い位置にそのままおさまっていく。
鶴見さんの著作は数多くある。どの著作の中にどんな文章があったか、思い出せない。大切な一文が入っていたな、と感じる本は、感触として残っている。とりあえず、本箱の2冊を引っ張り出してみる。1冊は「教育再定義への試み」(岩波書店)、もう1冊は、本棚のちょっと奥に入っていた「家の中の広場」(編集工房ノア)。前著の中の一文が目に止まった。
「終わりにのこるものは、まなざしであり、その他のわずかのしぐさである」
この文章は、父である鶴見祐輔氏の、寝たきりとなった14年間の姿を描いた箇所に登場する。仲は良くなかったが、寝たきりとなり言葉を失った父が、まわりの人に常に感謝し明るい気分を保ち、人の話しにいつもまなざしと身振りで応じていた、そのことに脱帽する、とある。
まなざしは当然、作られ、偽装を演じることもあるが、言葉以上に多くを語りうる。ふっと衒(てら)いから離れ、意識から離れ、迂闊(うかつ)にも外界への緊張の糸が切れたりする時、まなざしは隠しようのない、ほんとの気持ち、ほんとの心をあらわにしてしまう。誰もそのまなざしに、あらがうことはできない。それくらい、まなざしは日の光や月の光、星の光に通じる正直な自然の光を放つ。
鶴見さんたちが行った「転向研究」は有名だし、貴重な実践だと思う。その全体を深く論じることなどまったく及ばぬことだが、次の、吐露された一文は、「転向研究」の姿勢として忘れてはならない。
「私たちの転向研究は、転向を非難する研究ではない」
鶴見さんは、非難をされることには胸を開いて受け止めるが、自らが非難することには、特別の場合を除いて可能な限り避ける、という方法を取る。戦争の方向に向かおうとする国家姿勢に対しては、堂々と非難の側に立つが、その他には慎重だ。民衆としての魂、そのかけらが少しでも残っている人に対しては、非難を抑制する。
教条主義に走らない、ということだと思う。正義を競うことは、相手に撲滅をもたらし、まさしく正義とならない、ということを知り尽くしているからだろう。
医療の場でも、転向を非難しないという態度は大切と、ようやくぼくも知るようになった。
例えば、である。がんであることを告げられ、知らされ、大雑把にとは言え、余命についてまで教えられると、人は時に「死は覚悟しましたから、死を受け止めています」と表明したりする。それも立派な態度だが、人間って、そんな一つの決意が終始一貫して通せるほど、単一で簡素ではない。
ある時、死は受け止めたと言う、がんの末期を過ごしている患者さんが土下座して言った。
「この場になって、お恥ずかしゅうござんすが、先生、わし、生きとうございます」
ちょっと感動した。はじめの決意と違うじゃないかとか、人間一貫した主義を持つべきだ、とか思いつく間もないくらい、力のこもった言葉が放たれたいろんな時、いろんな状況で、転向が生じても、それは非難されることでも、非難することでもない、と思えるようになった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください