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[2]死刑廃止が世界的趨勢、感情的な存続肯定論

やめたのは欧州や南米、死刑を発表するのは米国と日本、執行が多いのは中国や中東

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

 これは、法的な「制度論」について考える場合にはいつでもいえることだが、死刑について考える場合にも、ミクロ的な見方だけではなく、マクロ的な見方も必要である。それが議論の大前提だと思う。

 法は、人間の行動を規整するための規範、仕組みであり、自由に対する拘束(刑罰等)という要素を含むが、そうした拘束については、適切に、また、できる限り謙抑的に行使されなければならない。これが近代法の大原則だ。

死刑執行について会見する岩城光英法相=2015年12月18日、東京・霞が関死刑執行について会見する岩城光英法相=2015年12月18日、東京・霞が関
 ミクロ的な見方をすれば、大多数の人間が、みずからの家族が殺された場合に加害者の死を望むのは、人間の感情として、ごく自然なことであろう。しかし、そのことから短絡的に死刑存続絶対肯定という結論に至ってしまうと、制度論やその基盤にある社会科学的指向、あるいは憲法的な価値観をないがしろにすることになりかねない。

 そうした議論の典型的なものが「それなら、あなたの家族が殺されても平気なのか? その殺人者が死刑にならないほうが幸せか?」という言明だ。

 この言明のレヴェルが、たとえば、「日米安保条約強化のための安保法制を認めないなら、中国に占領されてもいいのか? 北朝鮮からミサイル攻撃を受けてもいいのか?」、あるいは、「原発を再稼働しないなら、日本経済が疲弊してもいいのか?」などといった言明とあまり変わりのない、感情的、近視眼的で、かつ、論点のすり替え、論理的な欺瞞をも含む言明であることは、おわかりいただけるのではないだろうか。「自分の家族が殺されたら相手を殺してやりたいと思う人々でも、制度としての死刑には反対である」ことは、十分にありうる。

 そのことを証するのが、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリア、南米等の国々、また、アメリカでも19州とワシントンD.C.、さらに本土外の5自治領で死刑が廃止されているという事実だ。これらの国々を中心として死刑廃止条約(死刑廃止を目指す市民的及び政治的権利に関する国際的規約第2選択議定書)が、1989年12月に国連総会で採択され、1991年7月に発効している(なお、日本は反対票を投じている)。

  現在、死刑の執行が多いと考えられている国についてみてみよう(「考えられている国」というのは、正式な発表が行われている国はアメリカと日本くらいだからだ。つまり、死刑の数が多いというのは、国家としても、誇るべきことではなく、一般的には、むしろ隠しておきたい事柄なのである)。

  ダントツの1位が中国であり、これに、イラン、イラク、サウジアラビアといった中東諸国が続き、次がアメリカ

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