武田徹(たけだ・とおる) 評論家
評論家。1958年生まれ。国際基督教大大学院比較文化専攻博士課程修了。ジャーナリストとして活動し、東大先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大人文学部教授を経て、17年4月から専修大文学部ジャーナリズム学科教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。著書に『偽満州国論』、『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』『戦争報道』、『NHK問題』など。
立地地元を視野に入れない議論 5年前の「3.11以前への回帰」予想が的中
「結局、何も変わらないのではないか」
あるインターネット番組の出番待ちをしていた控室で、同じくゲストとして出演予定の若手研究者とそんな話をした。5年前の4月初め、東京電力福島第一原発は最初期の危機を乗り越えつつあったが、まだまだ予断を許さない状態だった。放射性物質の大量放出の結果、各地で突発的に線量の高さが報告されてはニュースとなり、そのたびにパニックに近い対応が繰り返されていた。
まだまだ平穏から程遠いそんな状況の中で、日本はやがて原発事故以前の原子力技術利用状況に戻るだろうと予想していた。事故前の原発立地を丁寧に調査した論文を書いていた研究者もそれに同意した。
それから5年――。この3月9日に関西電力高浜原発3、4号機の運転停止を認める仮処分を大津地裁が決定する動きもあったが、昨夏の川内原発の再稼働を分水嶺として日本の原発状況は急速に3.11前の状態に復帰しつつある。つまり5年前の予想は的中したわけだが、それを自慢したいのではない、むしろこんな予想は外れて欲しかった。なぜそうならなかったか。
原発立地の実態を知る人は、そこで原発が「生」の側にあることを理解している。たとえば敦賀半島の突端に原発誘致の話が出た1960年代、半島に住む人々はその建設で道路が作られることに期待したという話を聞いたことがある。当時の敦賀半島にはまともな道はなく、漁村の間は船で行き来するのが普通だった。原発はそうした場所に作られたのだ。
70年代には電源三法交付金制度が整備され、過疎化で税収不足にあえぐ原発立地に各種の交付金が還流するようになる。こうして原発が立地地元の「生」を支える構図が作られ、固定化してゆく。結果として核保有国とは別の文脈で、原発を手放せない社会が形成される。
だが、立地以外で原発反対を唱える人にはこうした現実の「生」に対する認識を欠くことが多い。日本で立地地域を超えた反原発運動が広がったのはチェルノブイリ原発事故後だが、そこでは放射線被曝による健康被害問題のみが取り上げられ、立地地元の状況が視野に入ることはなかった。
そして3.11以後、実際に原発事故を経験して反原発運動は激しさを増す。いつ、どの原発で福島を超える大事故が起きてもおかしくない。「来たるべき被曝」への恐怖は増大し、全原発の即時廃炉を求める声が国会を取り巻いた。
しかし、そこでも立地地元の「生」を迂回する構図自体は変わらなかった。反原発活動家は決して独りよがりではなく、彼らなりに立地地元の人たちの身の安全を本当に懸念してもいたのだろう。だが、その心配は事故が起きた時の被曝や死に向けられたもので、事故が起きていない時期の「生」に対するものではない。
原発によって「生」が支えられている構造を無視し、原発を即座に手放せと迫るだけの議論は、多くの立地地元の人たちにとって暴力的にさえ響いたのではないか。それが2011年4月の統一地方選に始まり、脱原発系候補が一貫して勝てなかった理由であり、結局、5年目になって3.11以前の状況に復帰するしか道がなかった理由でもあったのではないか。
しかしミクロにみてゆけば、5年の間に「変化」への可能性も感じる動きもあったのだと思う。高線量の放射線被曝は浴びれば健康被害が生じる。対して低線量領域では一定線量を境としてそれ以下の線量であれば影響は無視できるとする立場もあれば、どんなに微小でも悪影響はあるとする立場、いやむしろ生命活動を活性化させるプラスの影響があるとする立場もあって結論が得られていない。こうした事情を踏まえ、「低線量被曝の影響はまだよく分かっていない」としておくのが科学的に誠実な姿勢だった。
ところが、3.11後、「分からない」からこそ不安が増大した。国が健康への影響を否定している低線量の被曝でも
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