松田道雄さんの3冊の本から学ぶ
2016年04月07日
小児科医で在野の思想家と呼ばれた松田道雄さんは1908年生まれ。1998年に京都の自宅で亡くなった。今生きておられるとすると108歳。ぼくの父も生きているとすると似たような年齢だ。
松田さんの神髄、思想の根幹のようなものは、「育児の百科」(1967年・岩波書店刊)の中に満ちている。赤ん坊は一日一日成長する。すぐには一歳や二歳、三歳にはならない。ピカピカの小学一年生になるなんて、ちょっと大袈裟に言うと、奇跡のようなこと。
育てるのはお母さんと呼ばれる人。でもまだお母さんになってなく、その途上の人。松田さんはその人の伴走者に徹し、その人がほんとのお母さんになれるよう、週単位、月単位のアドバイスを書き記す。さすが臨床医だと思う。目次を見るだけで、すごさを覚える。
「誕生から一週まで」「一週から半月まで」。「半月から一カ月まで」「一カ月から二カ月まで」「二カ月から三カ月まで」。お母さんの心配に呼応すると一週ごと、一カ月ごとのアドバイスになる。
1歳を迎えてから、ようやく6カ月ごとのアドバイスに間が延びる。刻々と変わる生命体に対して、刻々と変わる育児法を伝授する。育児や小児臨床って、臨床全般の本質に通じるものを照らしてる、と教えられる。
育児という行為の中で、松田さんはいくつかの言葉に光を当てる。
「母乳」「便秘」「しつけ」「集団保育」「事故」「絵本」「昼寝」「体罰」
文章を勝手に、断片的に引用させてもらおう。松田さんの思想の息吹に触れることができるから。
「初乳はのまないでもかまわない。のませなさいといっても、この時期は赤ちゃんのほうで、そうたくさんのまない」
「母乳は人間の乳であるだけではない、生まれた赤ちゃんのからだに、いちばんあうように、30億(今だと73億)の人類のなかから、ただひとつえらばれた乳だ。いつでも欲しがる時に飲ませなさい。3時間毎、と病院のように決めるのはよくない」
「乳首だけ赤ちゃんの口に入れるんじゃなく、乳輪の裾野の黒い地帯までおしこむ。ミルクびんで飲ますより、自分の乳房を吸わせている母親のほうが、授乳のたびに快感をあじわう。快感は自信とむすびついて、母親の情緒を安定させる」
育児にも臨床哲学がある、というより育児にこそ臨床哲学の出発点がある、と気付かされる。
育児は日常だ。革命運動ではなく、主義の争いではなく政治運動でも経済活動でもない。
松田さんは育児の中心的存在のお母さんたち、その任を終えた主婦たちに、「私は女性にしか期待しない」(岩波新書・1990年刊)とエールを送る。
男性の盲点を衝いている、と言えるだろう。毎日新聞の家庭欄に17年間、週一回のコラムを連載し、1981年1月から1983年9月までものを一冊にした「日常を愛する」(筑摩書房・1983年刊)、がぼくは好きだ。
男たちは戦争をして勝とうとしたり、経済成長に血眼になったり、職場での出世のために汗だくになる。その対極で女性たちは、何でもない日常のことごとに汗を流す。
いのちの本質を育むのは女性たちではないか、と松田さんは言い切る。「日常」と題したエッセイから、引用させてもらう。夫への介護を終えたあと、自身は老人施設に入所することを選ばす、家で暮らそうとする女性の気持ちを書いたもの。
「自分の家から離れられないというのは、自分の日常から別れたくないからである。部屋、台所、戸棚、押し入れ、ふとん、食器、衣類、庭、すべてが、自分の美しかった日常の舞台であり、小道具であったのだ。そのひとつひとつが、柱のきず、壁のしみまで孤独の生を安定させるために必要だった。/生きるか死ぬかの場になって、はじめて日常の重さがわかる」
この本の中に、「がんの告知」というエッセイもある。今読んでも新しい。なぜそう感じるか。その前にそのエッセイの抄録を一読あれ。
「がんは本人に告知すべき、というようなルールをきめておくことには反対だ。私はこわがりだし、私に告知する人も言いにくいことだろうから、してほしくない。昔の医者は本人と家族とをふだんから知っていたから、本人や配偶者の性格によって誰にも告知しないほうがいい場合もあったろう。いまは、ふだんかかったことのない病院に入るのがきまりだから、医者が家庭の事情を知らず、診断書や保険の関係先のこともあって、かくし通すのは難しい」
この文章が書かれてから35年近くが経つ現在、告知せず、というのはかなりの少数派になった。
あらゆることに通じていくが、松田さんは物事を画一化し鋳型化し、効率化に片寄る現代社会に対して、生活の場から小さい反旗をひるがえす。松田さんの新しさは、その姿勢にある。
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