薄雲鈴代(うすぐも・すずよ) ライター
京都府生まれ。立命館大学在学中から「文珍のアクセス塾」(毎日放送)などに出演、映画雑誌「浪漫工房」のライターとして三船敏郎、勝新太郎、津川雅彦らに取材し執筆。京都在住で日本文化、京の歳時記についての記事多数。京都外国語専門学校で「京都学」を教える。著書に『歩いて検定京都学』『姫君たちの京都案内-『源氏物語』と恋の舞台』『ゆかりの地をたずねて 新撰組 旅のハンドブック』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
京都の三大祭の皮切りは6世紀に始まり、厳格な伝承を現代に再現
水田に緑したたる山容が映える季節、京都では御蔭山から神々を招いて賀茂社で宴が催される。京都三大祭のひとつ葵祭である。上賀茂・下鴨神社の御神紋であるフタバアオイが祭の飾草として彩られる。葵祭の「あふひ=日向」は、お日さま(神さま)に出逢う祭なのである。
「まつり」といえば「賀茂祭(現・葵祭)」を指していたように、千年前の京都において王朝の人々の関心を集めていた勅祭である。その平安時代よりすでにフタバアオイは、祭にもちいる草として飾られていたそうだ。
よく見ると、祭りに関わるすべての者がフタバアオイを携えている。都大路を練り歩く「路頭の儀」に参列する人々は衣冠に桂の小枝と葵葉を飾り、そればかりか、斎王代の乗る四方輿(およよ)や御所車の屋根、それを曳く牛、勅使たちの乗る馬にも飾られる。一般の眼には触れないが、内裏や神殿の御簾にも添えられ、その数1万本。むかしは洛北一帯の杉木立に自生していた植物だが、水の清らかな場所にしかその姿を見せない繊細な植物ゆえに減少の一途。年々採取に難儀している。上賀茂神社では、数年前からフタバアオイを育てるプロジェクトをすすめている次第だ。
葵祭の起源は古く、欽明天皇(540~571)のときに凶作が禍し、天皇が賀茂社へ勅使を遣わしたのに始まる。以来、上賀茂・下鴨神社の例祭で、今なお京都三大祭のひとつに数えられる。
農耕の無事と豊作を願う祭が、この時季日本各地で行われている。葵祭も同じく、賀茂社の祭神を介して神々をもてなし平安を祈る神事である。平安京よりもさらに昔、古墳時代からの願いが受け継がれている。
王朝人にとっても、現代人にとっても注目の的は「路頭の儀」である。『源氏物語』の車競いの場面にも描かれているように、どのポジションで祭を見物するか、貴族たちは躍起になっていたようだ。時の権力者藤原道長にしても、一条大路に見事な桟敷席を設けていたという。最高級の唐衣を着こなし練り歩く行列は、流行の最先端をゆくファッションショーさながらであった。まるで王朝絵巻と謳われる1キロに及ぶ現代の行列も、時代考証のもと、往時を忠実に再現している。
外国人観光客から見れば「きれいなキモノ」で括られるだろうが、キモノの着付けと王朝の十二単衣の着付けはまったく違う。折り目正しいカッチリしたキモノに対し、十二単衣はふんわりとたおやかな表情を持つ。宮中行事や神事に携わる装束司さんの伝承の技である(ちなみに古式にのっとった十二単衣は、すべて装束司さんの手仕事によるオーダーメイドで、下世話なことをいえば一着で高級車が十分買える値段である)。
人目を惹くのは衣装ばかりでなく、調度品の美しさにも目を瞠るばかりである。当時の最高級車である唐車には勅使が乗る。むかしは実際に勅使の方が乗って社参していたようだが、現在は乗り人なし。なにしろ平安時代の高級車は乗り心地が最悪で、長い道中、風も通らぬ暑い車内で車酔いも避けられない苦行であったようだ。それだけを取って見ても、むかしながらの腰輿(およよ)に乗る斎王代の並みならぬ体力と艱難辛苦に耐える精神力には感服する。
夜明け前から支度にかかって3時間に及ぶ着付けのあと、30キロの十二単衣を身につけ、頭には金属製の冠「心葉」をいただき、炎天下のなか微動だにせず輿に座しているのである。そのまわりの女人行列にしても、十二単衣の姿で歩くのだから、見た目の優雅さとは裏腹に気を失う一歩手前で乗り切っている。路頭の儀は、沿道から「美しいわねぇ」と歓声をあげて気楽に観賞するのが一番である。
余談になるが、京都在住のカメラマンにビューポイントを訊ねたところ、早朝、京都御所建礼門の西北の待機所で
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