重み増す9年前の藤原帰一論文、日本に求められる核軍縮交渉での役割
2016年06月02日
被爆地・広島を訪ね、慰霊碑の前に立ったオバマ大統領の姿を見て、筆者が思い出していたのは『論座』2007年8月号に掲載された国際政治学者・藤原帰一の論文「多角的核兵力削減交渉『広島プロセス』を提言する」だった。
藤原は「核軍縮」を誰もが賛同し、期待しつつも結局、実現に向けて働きかけることがない「原則」の状態から、少しずつであれ現実的な成果を上げてゆく「プロセス」に代えろと書く。どの核保有国も核削減に本気で着手する気がない状況の中で、非核保有国のイニシアティブで段階的相互軍縮プロセスへと核保有国を誘い込む。
そして、互いに相手の様子をみながら少しずつ外套を脱いで身軽になってゆくかのように軍事力を縮小均衡させてゆく一連の多角的交渉を開始する最初の国際会議を、核廃絶のためのシンボリックな意味を持つ広島で開催することを藤原は提案した。
この論文は、段階的核削減を進めてゆく過程においてという限定はつけられているものの核抑止戦略の実効性を認めていた点で「ノー・モア・ヒロシマ」の理念に反するとして平和運動家から強い批判を受けた。そうした批判に藤原がどのように対応したのかまでは筆者はフォローし得てないが、批判する側が読み損なっている内容もあるように感じた。
というのも核軍縮交渉のテーブルに各国を誘う作業を「非核保有国」の日本から始めるべきだと藤原は書いたが、戦後日本は「非核保有国」として一点の曇りもない存在だったわけではない。たとえば朝鮮戦争で核兵器の使用をアメリカが検討したことを承けて中国は1955年1月に核兵器開発に着手する方針を決定した。
布川弘「「核の傘」と核武装論」(『核の世紀』東京堂出版所収)によると、こうした動きを踏まえて佐藤栄作は組閣直後の1964年12月にライシャワー駐日大使と会談、中国が核武装した以上、日本の核保有も当然という認識を示したという。こうして核武装の意志を米国側に伝えた後、65年1月に佐藤は訪米する。佐藤を迎えたジョンソン大統領は「日本が防衛のためにアメリカの核抑止力を必要とした時には、アメリカは約束に基づき防衛力を提供する」と述べ、アメリカと中国間の核抑止戦略体制下に日本も含まれているとの認識を示した。こうして佐藤内閣は核武装論を鞘に納めるのと引き換えに「核の傘」を引き出したのだ。
こうした佐藤内閣の核武装論をブラフとして無視できない事情もあった。1957年に正力松太郎を委員長とする原子力委員会は英国のコールダーホール式発電用原子炉の導入を決定している。この原子炉の導入がプルトニウム生産をひとつ目的としていたことは、視察のために英国に向かった使節団の報告書に記されている。こうして導入された英国炉を使う東海第一原発は60年1月に工事に着工され、1965年5月4日に初めて臨界に到達。日本初の商業用原子炉として営業運転を始めている。
もちろん商業用原発の使用済み燃料から兵器級のプルトニウムを取り出すことは容易ではないが、技術的に全く不可能ではない。英国炉で作られたプルトニウムは日米原子力協定に拘束されないので米国に返還する必要がないことも重要であった。こうして核武装に向けたインフラ整備と解釈することもできる動きが具体的に伴っていたからこそ、佐藤の交渉が功を奏した側面があったのだろう。日本もまた核を外交カードに用いてきたのだ。
しかし実際に日本が核攻撃を受けた時に米国が核兵器による報復を行うという保証は実はどこにもない。日米安保協定に基づく「核の傘」論は、原子炉級プルトニウムから核爆弾が作れると考えるのと同じくフィクション性を帯びている。
その現実離れした隙を埋める必要もあったし、それとは別にやはり自前の核武装は必要だとする声も根強くあり、「核の傘」論の登場後も核兵器保有は可能とする見解が政府関係者から繰り返し述べられてきた。60年安保改定に際して反対運動を率いていた清水幾太郎が80年に突如、核武装論を主張して話題となったこともあった。
そんな歴史を踏まえた上で、
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