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バランスを欠いた舛添報道

バッシングに転じた「いじめのポピュリズム」

柴山哲也 ジャーナリスト

 このたびの舛添要一・東京都知事の突然の辞任劇は、日本のマスコミの特徴と見られてきた集中豪雨型報道とメディアスクラムが、実に見事な相乗効果をもたらした結果だった。これまでも、政治家のスキャンダルや芸能人の覚醒剤事件、不倫や不祥事などでしばしば見られた集中豪雨、スクラム報道の中でも際立った迫力と精彩を放っていたように見えた。

 日本のマスメディアの悪い面が集中的に出ており、報道というよりバッシングの面が強く、国民の知る権利に応えるメディアの本来の役割から逸脱している。

「せこい」部分をクローズアップした報道

舛添知事会見拡大政治資金の私的流用疑惑などについて記者会見する舛添要一・東京都知事=6月6日、都庁
 確かに舛添氏がやったことや答弁の方法は常識から外れているし、国民に対する説明責任はあるが、特に違法行為の事実確認がなされたわけではなく、いわば小悪の積み重ねで、「せこい」という部分がクローズアップされ、その「せこい」態度がバッシングされた。この流れから辞任(クビを取る)という方向にメディアの総体が誘導し突進したように見える。この現象は子供の世界にはびこる「いじめ」に類似している。というより、子供たちがこうしたマスコミを手本にして、いじめを正当化するかもしれない。

 この過程で舛添氏の家族への殺害予告まであったというから、やはりバッシング報道の行き過ぎがこうした殺害予告犯罪を生んだと考えられ、殺害予告へ至るマスコミのバッシング報道の過熱を警戒しなければならない。

 おそらく当事者の舛添氏は悪夢のような出来事の中にいたと感じていたのではないか。不思議と現実感には乏しい事件だったのである。当人にしてみれば過酷な夢に似た現実が、通りすぎて去ったようなものだろう。しかし呪われた祭りの後の現実には、新たな都知事選が日程にのぼり、舛添氏のクビを取った各局テレビのワイドショー番組は次の都知事選候補者の名前と顔写真をずらりと並べている。

 二番煎じ、三番煎じの人たちが出てきているわけだが、この中から新しい知事を選ぶために50億円の選挙費用をかけるコスト感覚をどう考えたらいいのか。それでもやはり舛添氏をクビにする必要があったのだろうか。いったいそれが日本のマスコミにとっての「正義」の実現だったのだろうか。

「公正」とのバランスを考えた多面的な「正義」が必要

 戦後アメリカの公文書では敗戦日本に対して「Justice」いう言葉がよく使われたというが、日本政府はこれを「正義」と翻訳するようになった。しかし正義には一面的な正義がしばしばある。反対者から見れば「不正義」になる正義もある。しかしJustice には「公正」という意味があることをマスコミは想起すべきなのだ。「正義」はよいが、偏った正義であってはいけない。そこで「公正」とのバランスを考えた多面的な「正義」が必要になる。正義とは一つではない。

 本来、マスコミが追及する正義は偏った正義であってはいけない。その正義感は公正な目で事実を見て判断しているか、そこがたえず問われている。「公正」を考えず、一方的な正義感や思いこみで報道すると、人と世の中を傷つけ損害を与える大きな誤報につながる。そのバランスを欠いた悪しき典型が今回の舛添報道ではなかったか。

 こうした報道を「いじめのポピュリズム」と呼ぶことにしたい。みんなでよってたかってある人物を標的にしていじめる報道のことである。

 しかしながら筆者が確認したツイッターの書き込みでは、マスコミのような舛添バッシングは希薄で、逆に舛添バッシングの過熱は他の重要な問題を隠すスピンに利用されているという警戒感がかなり見られた。舛添氏を擁護はしないが、甘利氏の真相究明の方がはるかに緊急性があるという書き込みも多数みられた。確か内田樹氏のツイートだったと思うが、舛添問題の見解はマスコミとネットでは画然と相反するものがあり、双方が異質な別世界を形成しているという趣旨の意見があった。舛添バッシングの意味付けにネット世論の戸惑いが見られたのである。

 しかしマスコミは変わり身が早い。もう何十日か経てば、舛添氏のことは忘れ去られるだろう。金銭スキャンダルで辞めた前任者の猪瀬直樹・前知事がすっかり忘れられているのと同様だ。

 舛添氏は記者会見で毎日、同じ弁明と言葉を繰り返し、表情はこわばり蝋面のような無感情に見えた。家族旅行の木更津のホテルの会議の場面にいたという元新聞記者は誰か、本当にそのホテルの会議に来ていたのか、上海で買った書道用の中国服は政治活動とどう関係したのか――説明責任を果たしていない、いつまで疑惑を隠しているつもりかと糾弾され、問い詰められ、公私混同だと罵られていた。

 実のところ舛添氏はなぜ自分がそれほどのバッシングを受けているのか正確には理解できずにいたのではないか。「いじめのポピュリズム」とは、いじめる側の集団感情は存在するが、いじめられる側にはなぜ自分がいじめられているのかよくわからないのが特徴である。

「せこい」公私混同疑惑

 舛添報道のイメージ作りは「せこい」という言葉で端的に表現された。都議会議員の質問でも「せこい」という言葉が議場に何度も飛び交っていた。政治資金を使って家族旅行をし、その中の費用に「会議費」と称するものを混ぜる。公用車を使って別荘へ行く。公用車に家族を乗せてコンサートにでかける。中国で書道用のシルクの衣服を購入する。さほど高価ではないが美術品をたくさん購入している。問い詰められた舛添氏は、これらの出費は「公的な政治活動の一環だった」という弁明を繰り返したために、新たに他の公私混同の事例を出されて返答に窮した。

 巨悪の金銭疑惑というわけではなく、「せこい」疑惑がテレビのワイドショーの話題に向いており、その分かりやすさが、集中豪雨のようなバッシングを招いたといえる。NYタイムズやBBCなどの海外メディアも舛添辞任を伝えたが、辞任の理由に「sekoi」と書いて、ケチ、ずるいの意味と解説している。前任者の猪瀬知事の辞任は「fund scandal」(金銭スキャンダル)としているから、舛添氏の辞任は金銭スキャンダルには届かない「せこい」ケチな金銭感覚によるものというのが、海外メディアの見方だ。

 あるフランスのメディアなどは、「東京オリンピックの3つの恥」として、エンブレム盗用、スタジアム設計やり直しと並べて舛添辞任を伝えているので、「せこい」知事辞任は東京オリンピックの恥とみなされているのだ。そのうち「sekoi」日本人のイメージは世界中に広まるかもしれない。

公正を失ったバッシング報道

 バッシング報道は活字の新聞よりもテレビに顕著に見られた。活字報道には文章を書くという行為に理性が介在するが、テレビ報道は映像で表現するメディアだから、感情移入たっぷりに喜怒哀楽の感情に訴える画を作る。映像は暴走するから注意しないといけないいと知人のテレビプロデューサーが警告していたことを思いだす。ワイドショーの舛添報道は視聴者の「怒」の感情を煽って点火し、「公金を私用に使った怪しからん知事」イメージをかき立て、連日連夜の舛添バッシング報道へと拡大していった。

 当初は海外出張にファーストクラスを使い、一流ホテルの高額なスイートルームに宿泊したという程度の内容だったが、「知事が二流のホテルに泊まれるか」などと居直り発言をしたために世論の反発を招いた。

 さらに公用車で湯河原の別荘へ毎週、通っているという問題が出てきて、公用車の私的使用が批判されたが、「公用車は動く知事室」といって別荘通いを正当化しようとしたために世論の反発はさらに大きくなった。

 このほか宿泊や飲食に関する疑惑として、上記の千葉県木更津市のホテルに家族と宿泊したが、このとき元新聞記者の出版社社長と選挙に関する会合を行ったとして計37万円や、自宅近くの料理店で家族と食事した約18000円が政治資金として記載されていることが問題になった。

 またインターネットのオークションで絵画など多数を購入し、購入書籍の一部が漫画やクイズ本で子供用に購入されたという疑惑がもたれた。

 これらの政治資金疑惑に関して舛添氏は第三者としての弁護士2人に調査を求め、 ・・・ログインして読む
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筆者

柴山哲也

柴山哲也(しばやま・てつや) ジャーナリスト

同志社大新聞学科大学院を中退後、1970年に朝日新聞記者となり94年に退社。ハワイ大学、シンクタンク東西センター客員研究員等をへて京都女子大教授、立命館大学客員教授。現在はフリーランサー。著書に『日本型メディアシステムの興亡』(ミネルヴァ書房)、『公共放送BBCの研究』(同、編著)、『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)、『真珠湾の真実』(平凡社新書)等。