野の花診療所からのリポート
2016年06月29日
2月10日に他界された元大学教授とは5日間の関わりだったが、もっと短い人もあった。総合病院の外科医からの紹介である。
「多発性肝腫瘍。本日、開業医さんから紹介された初診の方です。原発は不明ですが、肝に多発性の病変が見られます。腹水も多く、黄疸も強く、緩和ケアが中心と思います。よろしく」と書かれた紹介状を弟が持って診療所へ来た。
10km以上離れた村。即刻往診。田んぼの中の家に二人で住んでいた。
変わった兄で、全国を転々する、ユンボを使う土木作業員。前日に腹張ると言って、近くの開業医にかかったのだそうだ。医者にかかるのは生まれて初めてだったそうだ。総ビリルビン16mg/dl、腫瘍マーカーは大腸がんで上昇するCEAが43.6mg/ml、腎機能も肝機能も著しく悪い。血小板は8万。体もDIC、さらに多臓器不全を生じている。
床の抜けそうな台所。散らかった部屋。乱れた布団。ナースが片付け始める。点滴のぶら下げれそうな所を、ぼくは探す。
「君がいたら、大丈夫。兄貴さん、家で最期を迎えられる」とぼくは弟に言った。弟に兄を看取ってやってくれと頼む。「そのつもりです」と弟。
3日目の昼過ぎ、電話が入った。弟からだ。
「台所から部屋に戻ってみたら、兄貴、息しとらん」。
即刻、車を飛ばす。坂道の向こうの玄関で弟は待っていた。弟は驚きながら、寂しそうな顔をして最後の兄を見た。日本酒を綿花につけ、お別れ、とした。
2月12日、午後2時56分。初診から3日目。
患者さんの職業はいろいろ。どんな職業であっても人間って同じ。皆が下顎呼吸という呼吸をして死に至る。でも、その人を知るのに、職業は小さな窓になる。
85歳の男性である。
1月の下旬、総合病院の休日救急外来を、歩き辛いと訴え受診。CTで膵癌の多発肺転移。アルツハイマー病の薬も飲んでいた。
積極的治療は希望せず、診療所に紹介になった。「10kgはやせた」と奥さん。米作りと果樹栽培で生計を立てている市内近郊の山村農家さんだ。「わし一人じゃ、よう介護しません」と奥さん。病状は徐々に進んだ。
「わし、家に帰りたい」と男性。数時間の帰宅を計画した。
細い山道をくねくねと進むと、小さい山合の集落。あちこちに桃の木が植えてあった。車から降りた。さらに細い道を、看護師と事務員とぼくとで患者さんを担架に乗せ、家にたどり着いた。
特別なる絶景、というわけではない。見慣れた山村風景。そこに彼は帰ってみたかった。居間に寝て、「柿の産地だったこの村に、初めて桃を植えたのはわしです」と、誇らしげに語った。桃農家だった。彼の家の桃の木を彼は全部切って、今は一本もないらしいが、その村は今や桃で有名になった。彼はパイオニア。
亡くなったのは、わが家に帰って7日後の、2月14日、午前6時8分。
矢継ぎ早に患者さんが紹介され、入院となったり、在宅療養となったりした。そして、矢継ぎ早に亡くなった。
67歳の男性である。
胃がんの術後の再発。肝臓に多発性の転移があった。
最初の手術から4年が経ち、兵士のような闘いをした。気管切開を受け、引っ切りなしの吸引が必要だった。
「ヤセテキタ、テンテキ、フヤシテ」と口パクでしゃべった。「モウラクニ。カクゴシテマス」と入院時の口パクは表明してたのに。
でもいつも、人の気持ちは変動する。株価に劣らじ。苦しさは増強する。少しよくなることもある。最終的に憎悪する。一日ごと刻々と変わる。身体も心も。それが人間が持つもう一つの自然。
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